「わかりますわ。でも再び、わたくしのものになるわけでもありません」
明子は着替えるために寝室へ向かった。
「一緒に行けなくて、すまなかった」
明子は振り向いて微笑んだ。
「特別な日ですもの。ご家族とのディナーは大切ですわ」
寝室に入った明子はシニョンを解き、ベッドの隅に腰かけた。壁には赤い襦袢が掛けられている。大佐は、素裸にそれだけを身に着けた明子がお気に入りなのだ。
襦袢を見上げて、自分と踊った青年のことを想う。ペシミストで、繊細で、自分を蓮の花だと言った、はしばみ色の瞳の青年。
「ヒー・マスト・ビー・ブラインド」
明子は呟いた。とんだ節穴ですこと。
私は、人生の喜びを花火だとは思わない。けれど、あの場所、あの青年と踊ったひと時は、花火のようなものだったのかもしれない。明子はぼんやりと考える。
昨年還暦を迎えた明子は、神戸・南京町の雑貨店の商談用ソファに小柄な身体をうずめ、書類の「昭和」と書かれた部分に「平成」のシールを貼る作業をくり返していた。オーナー兼バイヤーの夫は、上海に出張中である。
朝から降る小雨のせいか、客足は途絶えがちだ。それをいいことに、向かいのソファで現代史のレポートと格闘していた夫の甥の克己が、ふと、
「伯母さん、ちょっとこれ見てよ」
と、薄い洋書を開いてみせた。
「終戦後、日本にいたアメリカ人たちの回顧録なんだけど。ひとり、私小説風に書いていておもしろいんだ」
明子は老眼鏡のふちを正しながら、開かれたページのタイトルを見る。『メモリーズ・オブ・アキコ』。
「若い将校がさ、パーティで華族の娘さんらしい日本人と会うんだ。つかの間の、淡い恋ってやつ? ヒロイン、伯母さんと同じ名前なんだよ」
黙ってページを繰る明子に構わず、克己はしゃべり続ける。
「なんかさ、マダムバタフライに通じるオリエンタリズムを感じるんだよね。ロマンティックだけど、自分が、奪った側の人間だっていう自覚がもうちょっとあってもいいと思うんだけど」
「……この本を書いた人は、その後どうしてるのかしら?」
「知らない。これ一冊しか出してないみたいだし……でもさあ、ちょっとかわいそうな気もするな。この人、本国に帰還するまで、この屋敷にしょっちゅう出入りして彼女にまた会えないか、待ってたみたいよ」
明子はそっと本を閉じた。鮮明であり、おぼろげでもあるような、さまざまなものが胸に浮かぶような気がした。
華やかな声に顔を上げる。ガイドブックをバッグからのぞかせた若い女の子のふたり連れが、店先で傘をたたんでいた。
明子は客を迎えるために、立ち上がる。