明子は笑い、しばらく無言でいたが、ふと、暗い庭園の一点をレースに包まれた指先で、すっ、と指した。
「あそこに小さな蓮池があるのですが」
あると聞いたのですが、と言い直して明子はつづけた。
「そろそろピンクと白の、何とも言えない清純な花を咲かすころでしょう。でもその姿を愛でることができるのは、ほんの短い時だけ。そのためには汚い泥水が必要なのです」
ジュリアンは明子を見つめる。彼女は花火の音にいまだ少しおののきながらも、顎をあげ、しっかり前を見て話しつづける。
「美しくないその茎は、滋養のある食物として私たちを助けてくれます。私には人生は蓮のように思えますわ。喜びは花のように短いかもしれませんが、それは泥の中の忍耐と、食という実用と一体なのです」
「そして、花はまた翌年咲く……」
ジュリアンは呟いた。そして、微笑む明子に告げる。
「あなたは蓮の花のように、清純で美しい人間だ」
「わたくしが?」
ほんのわずかだが、明子の言葉に自嘲めいた響きが混じった。そして彼女は言った。
ユー・マスト・ビー・ブラインド。
ジュリアンは、その言葉をどう受けとめてよいのか迷った。そして、それを彼女の謙遜と解釈した。
気配を感じて振り向くと、執事の老人がためらいがちに目礼していた。
そして明子に日本語で何かを告げたが、ジュリアンにわかったのは、タクシーという単語だけだった。
何か彼女に言いたい、言わなくては、と思う。しかしジュリアンはただ、呆然と立ち尽くすしかなかったのである。
藤堂明子は、元召使頭を乗せたタクシーを見送ると、バラックの中に唯一、いまだ超然と建つ、古いアパートメントの鍵を回した。
予期したように自室からは、うすい照明が漏れ、ウイスキーを飲むマクミラン大佐の広い背中が見える。
気配に気づいた大佐が立ち上がり、近づく明子を軽く抱いた。
「アキコ、素晴らしい夜会服だ。パーティは楽しかったかい? ターナーに君のこと、頼んでおいたのだが」
「おかげさまで、よくしていただきました」
大佐の匂いが立ちこめる。ウイスキーとポマード、葉巻、そして戦地で死んだ父とおなじ匂い。
「──で、どうだったかね?」
「ええ……きちんとお別れを言うことができました」
大佐はためらったあと、明子の頬を撫でた。
「アキコ、私たちは永遠にこの国のものを接収していくわけではないんだよ」