「ありがとう。私は、パリを知らないアメリカ人ってやつです」
明子の英語は他の日本人同様、なまりがあったが、文法も正しく、語彙も豊富そうで、蓄積された教養をうかがわせていた。
しかしそれはジュリアンにとってさほど重要ではなかった。彼は彼女の語学力よりも会話力に舌を巻いていた。もっとこの女性と話をしてみたい。そう思える日本人女性に彼は初めて出会ったのだった。と同時にジュリアンは思うのだ。語らわなくてもいい。このまま彼女の華奢なからだに触れ、体温を感じ、カメリア(椿)の匂いのする髪に唇が触れそうな位置に、ずっといたい、と。
彼の心を知ってか知らずか、明子は喋るのをやめた。
そして頭をもたげ(そう、たいていの日本の娘のように、うつむいたり睫毛を伏せたりせずに!)、時折ジュリアンに笑いかけ、彼とのダンスを集中し、楽しんでいるかのようにみえた。
しかし彼はすぐに気づいた。明子を半回転するたび、彼女が屋敷のどこかしらに──ドリス式の柱だったり、シャンデリアだったり、あるいはただの空間に──すばやく視線を投げかけていることを。
視線は強くしかし慈しむようで、口元は自然にゆるんでいる。言葉のかわりに饒舌になった彼女の表情を見、思わずジュリアンは言う。
「先ほど、あなたが入ってこられたとき」
明子はまっすぐに彼の瞳をとらえ、言葉を待つ。
「こんなふうに感じたんです。この屋敷の隅々まで、すべてが悦んでいる、あなたを歓迎している、と。あなたは名前のとおり空間に光を与え、輝かせた。魔法の杖のひとふりでね」
「それは……」
明子は言葉をとめた。ジュリアンは、ゆるくからめている彼女の指先に、わずかだが力が入ったのを確かに感じた。
「それは大変うれしいお言葉ですわ」
フロアは静かな熱気に包まれていた。誰もが叙情を共有していた。それはつかの間の恋や恋もどきだったり、ノスタルジーだったり、失われつつある若さだったり、夏だったり、戦後という時代にたいしてのものだった。誰もがなにかを、惜しんでいた。
「スターダスト」が始まった。ジュリアンと明子は変化をつけたステップを楽しむが、曲も終盤に近付くと、ジュリアンは彼女に、提案した。
「そろそろ私たちに必要なのは、新鮮な空気と冷たい飲み物だと思いませんか?」
「ええ。実はわたくし、あちらのご婦人の召し上がっているジンが気になりはじめたところ」
明子の率直な言葉に、ジュリアンは心からほっとする。彼女の手を離したとたんに差し出されるだろう、あまたの男たちの手の気配を、ひたひたと感じていたから。