令を下さない司令官。可笑しくなって再び彼女に目をやると、めったにないことだが、ジュリアンは口笛を吹きたくなった。ごく控えめに、であるけれど、彼女はリズムに合わせ、細い指で膝の上を叩いていた。そして身体をスウィングさせている!
曲が終わり、パートナーの夫人に礼を述べると、ジュリアンはためらいなく、彼女のもとに向かった。
ほんのわずかでも言葉をかわしたい、と思ったのだが、バンドが休憩なく、そのまま「ムーンライト・セレナーデ」の演奏をはじめると、ジュリアンは彼女の前に立ち、片手を差し出していた。
「マドモアゼル。踊っていただけますか?」
動揺したのは彼女ではなく、ジュリアンのほうだった。
彼は自分自身の言葉に驚き、会場の人々の息をのむ気配にこわばり、女の見開いた黒い瞳に、指先が震えた。
執事の老人が気の毒そうな表情でジュリアンに一歩近づいたのと、女が「イエス」と小さく、しかしはっきりと答えたのは同時だった。ジュリアンは彼女の手をとり、フロアの中央に誘導する。皆が、踊りながら巧みに彼らのために道をつくる。フランクがパートナーの肩越しに親指を立てているのに、ぎこちない笑顔で応じる。
ジュリアンは仏語で叫びたくなった。悪態ではないけれど。
オン・ナ・ク・ウヌ・ヴィー(人生は一度だけ)!
「ジュリアン・ラッセル少尉です」
女の背に手をまわしながら、彼は目で会釈した。
「明子と申します」
ア・キ・コ、ア・キ・コ……とジュリアンは口の中で小さく繰り返した。ほころんだ女の顔に、彼の緊張は一気にとける。
「アキ……秋(オゥタム)?」
「いえ、〝明るい〟(ブライト)という意味の文字ですわ」
彼はうなずいた。それは太陽の燦々とした明るさではなく、暗闇に慈悲深く射す、ひと筋の光明を想わせた。
それに彼女の声──なんと耳に心地よいのか。故郷の、橇の鈴の音のように。
「あの。少尉のお名前の由来は、仏語でなんと?」
「どうして仏語と?」
驚くジュリアンに、明子の頬が赤らんだ。
「仏国の方に多いお名前かと。マドモアゼルとお呼びくださったので……失礼いたしました」
「いえ」
ジュリアンは笑った。
「もとはラテン語でユリウスというのですよ。そんな名前の聖人が昔いたんだそうです。初めてアメリカの地を踏んだ、祖父が付けてくれました」
「ルーツを大事になさるって、素晴らしいことですわね」