小説

『名前って、ふたつ以上の鐘の音』入江巽(『ラムネ氏のこと』坂口安吾『赤と黒』スタンダール)

 小俣達雄くんには、スモモのようなかわいらしさの小俣沙紀ちゃんという妹がいて、ジュリアンは、小俣達雄くんのひとりぐらしの部屋で沙紀ちゃんを紹介されたとき、脳みそがくらくらした。可憐さで頭に一撃をくらっただけではない。名前である。おまたさき。ぼくの住む、奇妙なこの名前の世界に、こんな青い花が咲いていたのか、ジュリアンは思い、のぼせていた。彼女も同じく関西学院の一年生、文学部だった。

 感情がおさえがたくなったジュリアンは、春が近づく夜の空気に酔いながら、三月の終わり、小俣達雄くんの部屋へと歩いた。この夜、「キラー・コンドーム」という、コンドームが人を襲撃するバカ映画を、ジュリアン、達雄くん、沙紀ちゃんの三人で見たのである。この映画が終わったとき、ぼく田中コンドーム・ジュリアンです、襲撃はしないタイプのコンドーム、と明るくふたりに告げようと思っていた。

 その夜、ジュリアンは「キラー・コンドーム」でげらげら笑い、自分もコンドームであることをぽつぽつり話した。この誰にも相談しにくい悩みをやっと言える、肉親以外の人間が、この世界にふたりもちゃんといるのだと思うと、泣かないつもりだったのに、話しながらわんわん泣けた。ときに笑い、ときにうなづきながら二人は話を聞いてくれ、小俣達雄くんは、ほんま苦しかったんやなあジュリアン、なんかお前の話聞いてたら、俺の名前なんかなんともないような気してきたわ。グローバルな視点で考えたらな、俺や沙紀はアメリカ行ったら誰にも笑われんと思うねん。「おまた」も「たつお」も「さき」も、アメリカ人なんとも思わんと思うわ。俺らのは、日本語という枠組みのなかでの悲しみでしかないわ。それに比べてジュリアンお前はコンドームやもんな、どこの国でもコンドームはコンドーム言うやろなア、逃げ場なし、悲しみがワールドワイドで深い、と人格者なことを言ってくれ、ジュリアンは本当にわんわん泣いた。沙紀ちゃんも泣いてくれた。

 三か月ののち、ジュリアンは、コンドームを、梅田のラブホテルで沙紀ちゃんとはじめて使った。二回ほどは頭のなかで「コンドームがコンドームつけてる」の音が響いてきて、うまくいかなかった。はじめてきちんと使えたあと、ベッドの中で、沙紀ちゃんと抱き合いながら、自分の生まれてこのかた隠してきた苗字の一部や、記憶にうすい父のおもかげ、父が二歳になった自分のためにつくってくれた緑色のビロードを貼ったちいさな椅子、トミコがフランスで書き、どんなものかはジュリアンも知らないスタンダール論、歴史のむこうに本当にいるかわからないフランス人医師・コンドーム氏、沙紀ちゃんだけではなく、いろんなものと一体になれたような気がした。沙紀ちゃんも、ジュリアンそのひとだけではなく、なにか自分の隠された劣等感そのものに折り合いがついたような気がしてヨモギのようなやさしい気持ちになっていた。みんなラムネ氏でええんよ、あの夜、沙紀ちゃんはふとそう言って、坂口安吾の随筆をひとつ、声に出して読んでくれた。
「関学の、チャペルの鐘、いつか自分で鳴らしてみたいナ」ジュリアンはふと言い、沙紀ちゃんは、「一緒に鳴らそう、ぐわんぐわん鳴らそう、忍び込んで鳴らそう、世界中に鳴らそう」と口をジュリアンの耳に寄せて言った。それを聞いてジュリアンは、沙紀ちゃんの心臓の音が聞きたくなって、柔らかく押し倒し、小さな胸にもう一度埋もれていった。ふたりとも、すぐに気持ちいいしかわからなくなった。

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