「ケ・セラ・セラかよ」思わず口から飛び出してしまったなんの意味も無い私の言葉は誰もいないオペ室に響いた。
長い廊下の向こうにはナースステーションがあってそこには同僚の看護師達もいたが彼女や彼たちは一緒に恐怖の大魔王と戦う仲間ではなかった。
私はずっと一人だったことを思い出した。
勝者でも敗者でも無くずっと一人だった。
数日後、私は病棟に戻されたその元妊婦が新年を迎えて直ぐに亡くなった事を知った。
どこからか煙草の匂いが流れてくる。振り向くと後ろの座席で煙草を吹かすあの男がいて私は「この列車は禁煙ですよ課長」と尖った声を投げつけた。
課長は右手に煙草を持っていて左手にはお猪口を持っていて三本目の手は焼いた小鳥を持っていてそれらを次々と咥えたり啜ったり噛んだり舐めたりしている。
「どう、来週、今度またあの中目黒のフレンチ。ほらっアスパラガスのポタージュが美味かった」
あの店は全席禁煙なのに煙草を吸おうとした課長を私は責めた。
「そうか。そうだった。いつもすまない」
私はいたたまれなくなって鈴ちゃんの手を引いて隣の車両に行った。
「本当にいつもすまない」
課長の声が追いかけてきた。
隣の車両で私は鈴ちゃんと隣り合わせで座った。もう列車はトンネルを抜けていたけど、更に深い世界へ進んだ様で車内は薄暗かった。
車窓から見える宙は菫色になっている。
私は今のことを鈴ちゃんに詫びた。
鈴ちゃんは無表情無言のままで軽く頷く。
私は思い切って鈴ちゃんに尋ねる。
「ねえ鈴ちゃん。鈴ちゃんは何してたの。1999年の大晦日」
でも、鈴ちゃんは答ようとはせず押し黙ったまま車窓のむこうに視線を送っている。
「ねえ」
私は鈴ちゃんの次の言葉を待った。
鈴ちゃんは静かな目でじっと私を見つめた。
「なんで看護婦さん、辞めたの。あなた」
長い間手術室勤務だった私は、新世紀が始まった頃に思い切って病棟への配置転換を願い出た。
病棟は慢性的な人員不足で私の希望はすぐに認められたけどオペ室では注射一本したことが無かった私は出だしからつまずいた。