小説

『カサジゾウ、的な何か』柿ノ木コジロー(『笠地蔵』)

 じいさんは小さな集落を出て、いったん山を少し上がってから尾根づたいにゆるゆると下っていって、途中、大きな川の吊り橋を渡り、車通りがほどほどの道路に出て、更にその道を十分ほど下って行きました。そしてようやく、バス停に着きました。

 バスは七時十三分、定刻にやってまいりました。
 お客は他に数人ほどですが、じいさんはすっかり売る気満々なので、「おはようございます」と大声で乗り込みました。
 誰も答える者がおりません。一番手前にいた女子高生らしい子が、ぎょっとしたように目を上げたのですが、すぐに手元の小さな電話に目を戻し、あとはずっとそこから目を離しませんでした。
 それでもじいさんは、座ってからずっと、元気いっぱいで前を見据えておりました。
 バスの車内どこもかしこも薔薇色に澄んだ空気に満たされている気分でした。

 果たして、笠はさっぱり売れませんでした。

 始めは駅前で、それから少し歩いて場所を移して大きな店の前で、そこでは警備員に注意されたのでまた移動して、今度は大きな広場の近くで、じいさんは笠を置いて、じっと待っておりました。
 あまりに通りかかる人びとが見てくれないので、しまいには
「えー、笠。手作り笠だよ」
 と、声を張り上げてみました。それだけでは何か足りぬ気がして
「伝統、工芸だよ、めったにない、チャンスだよ~~」
 横文字まで叫んでしまいました。
 それでも、通りすがりのサラリーマンがくすっと笑ったくらいで、立ち止まってくれる人はまるっきりおりませんでした。

「じいさんまだ帰らぬ、ほい」
「かかしの方が、まだマシじゃ、ほい」
「パンくず踏んどる、ほい」
「ほい」

 近くを飛び交う雀どもが、口々にさえずります。ちっと舌打ちしたいのをこらえ、じいさんは時おり忘れがちになる営業スマイルを頬に貼り付け、なおも粘ります。
 風は身を切るように冷たく、日が一番高くなって、それから徐々に低くなって、街並みをやや黄味がかった色に染めていくに従い、さらに強く冷たくなっていきました。

「一郎のやつ……」
 つい、つぶやいていたようです。
「何が、伝統工芸だ、何が、高価だよ、だ」
 じいさんは傾いた日の方をぼうぜんと眺めました。
「ふざけんな」

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