小説

『粗忽なガーヤ』佐藤邦彦(『粗忽長屋』)

「どうしたい?」
「それがよ、俺、困っちまってよ」
「だから、どうしたんだい。困っちまっただけじゃ分かり様がねえじゃあねえか」
「それがよ、俺、火星ツァーの懸賞に当たっちまってよ」
「なに⁉火星ツアーだと!」
「そうなんだよ。応募したのも忘れてたんだけど、さっき抽選に当たったって連絡があって、困っちゃってんだよ」
「この野郎。うまいことやりやがったな。火星ツアーといや、俺たちゃ庶民にとっちゃ夢の様な話じゃねえかよ。なにが困るってんだ。おめえが嫌なら俺が代わりに行ってやろうじゃねえか」
「そうじゃねえんだ。兄ぃ、この火星ツアー、行って帰ってくるまで20日間ていう長旅なんだそうでよ」
「長旅、結構じゃねえか。えっ、それだけありゃ火星の観光地も大分観てまわれるだろうが。土産は火星名物のウェルズ饅頭で頼むぜ」
「それがよ兄ぃ、俺、先月から就職しちまってよ、まさか入社早々に20日間も休めやしねえじゃあねえか。それで困っちまってんだよ。ツアーの出発は明後日だっていうしよ」
「なんだと!就職しただと?おめえも物好きなヤツだね。なんだってまたそんな酔狂なことをしやがったんだい」
「面目ねえ。どうしても新しい反重力車(くるま)が欲しくってよ。ベーシックインカムの金を溜めてたんじゃあ、3年も4年もかかっちまうだろ。それでつい出来心で……」
「仕様がねえ野郎だな。そんな理由で就職しやがって。おめえが就職したが為に、本当に働かなきゃいけない人が一人働けなくなっちまうんだぜ」
「反重力車さえ買っちまったらすぐに退職して二度と就職なんかしねえから、そう云わねえでくれよ」
「まったく仕様がねえな。まあ、おめえの事だ、今回ばかりは大目にみてやらあ。で、会社を休まずに火星ツアーに行けりゃ問題ないわけだな」
「そりゃそうだけどよ。そんなこたあ無理に決まってるから悩んでるんじゃねえか」
「それがよ、無理じゃねえかも知れねえんだ。いや、はっきり大丈夫ってわけじゃねえから、あまり期待しねえでもらいたいんだがよ。なんでも自分をもう一人作れる装置を発明した学者がいるってんだよ」
「もう一人の自分?」
「おう。でな、その学者が最初の実験をしてえんで、被験者を捜してるそうなんだ。誰かいねえかって、俺もアンスンのヤツに頼まれててよ。どうでもアンスンの従兄ってんだがな。で、どうでえ、おめえそれに立候補しちゃ。なんたって只だしよ。うまくいきゃ、そのもう一人の自分に会社に行ってもらって、おめえは火星ツアーに行けるってわけよ」
「被験者を募集って……。危ねえ実験じゃねえのかい?それにアンスンの従兄だろ?あいつ、対宇宙人用のモビルスーツだとか、月に直通の扉を拵えるとか、変なことばっかり云ってやがるじゃねえか」

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