小説

『海の踊り子』洗い熊Q(『羽衣伝説』)

 急ぐ私を呼び止めた男がいた。幼い頃から知人の豪商の息子だ。
 彼の後ろには妻らしき若い女性が恭しく、私に向かってお辞儀をしていてくれていた。
「ああ、今しがた到着したばかりだ」
「へぇ……随分と忙しそうにしているよな。まあ、やり手だった、あの叔父さんの仕事を引き継いだんだ。二人掛かりでも大変というものだな」と男は笑って言う。
 悪気はないのだろう。言わば分かっていない。
 だがどうしても私と兄の事を馬鹿にした言い方に聞こえる。こいつの父親の力は知っているが、そのどら息子には何の才能も無い事も知っている。
 言い返しそうになったその言葉はぐっと飲み込み、その代わりに私は苦笑いを見せていた。
「そうだ。俺の妻を紹介しておこう。良い血筋なんだ、俺の妻は」と男は自分の背後にいた女性を前へと引き出して来た。
 彼女はまた深々と、無言での挨拶をしてきていた。私はそれに軽い会釈で答える。
 ――美しい女性だ。凜とした雰囲気があり上品な容姿。
 一瞬、私の母と姿が重なる。
「つい最近、娶ったばかりだ。……そういえば、お前も妻を迎えるって話を聞いたなぁ」
「……ああ。その為に帰ってきたんだ」
「そうか、そうか。やっと迎える気になったんだな。良いもんだぞ、妻というものは。色々と便利だ」と男は笑った。
 こいつは本当に己の妻を愛しているのか? そう感じると共に、妻となった彼女の事を不文に思った。こんな男と一生の伴侶となる事を。
 傲慢で人でなし。こいつの父親の影さえなければ、この場で殴り倒したい男だ。
 ――ここまでの人非人ではなかったが、私の父も似通った人種だった。それに狡猾さ交わって。
 目前にいる二人が、昔の両親の姿と重なって見えた。
 目前の彼女も、私の妻となる女性と同様な悲しげな舞いを見せていたのだろうか?
 それとも――。
 そう思いを巡らせると、あの時の情景が滲み出るように心中に浮かんでいた。
 そう、私の母の舞いが。

 
 今の母は実母ではない。後妻だ。
 実母は病死だったか、そうではなかったか。それを理解できる歳ではなかった。

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