小説

『薔薇のことば』三角重雄(『聞き耳頭巾』)

 かくて校長の厄介払いと和人の愛想づかしという、別名退職劇は、双方の平和的合意で幕を閉じた。
 職員室では、和人の思いがけない訪問に同僚たちはびっくりしていた。別人のように晴れやかな和人を見てあっけにとられ、誰も声をかけられない。あっという間に荷物を片付け、簡単な挨拶をして和人は学校を去った。
 家に戻ると庭が薔薇の香りで出迎えた。官能的な匂いだ。見ると、十個の蕾の開花どころではない。しかも、ピンクの薔薇のはずが、ブルーだ。十、二十、三十、ブルーローズの花が百以上!しかも近寄ってみると、花弁に銀の粉が降りているようだ。だから輝きはシルバーブルー。その上、こんな香りはかいだことがなかった。甘美な香りの極致だ。
「お帰り。和人さん。驚いた?」
とシルバーブルーローズのユニゾン。和人は言葉も出ない。
「私たちに任せて。多鶴子さんをなんとかするわ。」
和人は百本のシルバーブルーローズの花束を多鶴子に手渡した。普段は和人の薔薇に目もくれない多鶴子の瞳が輝いた。
 どういう魔法か。
 あっさりしたものだった。退職金の四分の一だけ差し引いて、残りは多鶴子と言うことで、無断退職へのお咎めはなしだった。
「いいわ。なんだかすっきりしちゃった。ついでに別れてあげるわ」
 魔法に違いない。和人の人生の難問が、薔薇たちとの会話で二つながらあっという間に片付いたのだ。
「な~んか馬鹿馬鹿しくなっちゃった。あたし、やめた。あんたなんかコントロールしたって面白くないわ。あ~あ、実家に帰るわ。出てってあげる」
多鶴子の家は市内にある。多鶴子がいいなら和人に異存は無い。多鶴子には教師という仕事があるから、生活には困らない。
 百合子がどちらの姓を名乗るかは百合子次第になった。和人は毎月の里帰りを心待ちにすることは、これからも変わらないだろう。
 つまり、誰も困らないのだ。これは、「発展的解消」というだけではくくれない。これはまさに、そう、恩寵だった。
 なぜ自分に恩寵が?和人には分からない。分からないながら、有り難いことは感謝して受け取った。受け取って一人で暮らしてみると、よけいに感謝が湧いてくる。
 朝起きると、薔薇の香りが満ちている。窓を開ける。鳥たちと会話する。恩寵でなくて何だろう。歌を歌う。鳥がハミングする。蝶が舞う。薔薇が揺れる。何という幸せか。和人の心から、何かが解き放たれた。同時に和人の心に、更なる感謝が流れ込んできた。
「誰かに何かせずにいられない!」
「よかったね~」
 と庭の花たちや、鳥たちの声があちこちから和人を囲む。

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