そういう意味で、みんなと会話できるようになった和人は、何よりも薔薇との会話を喜んだ。
目下の和人の恋人は、薔薇のA子、B子、C子だった。
「和人さん、協力するわ」
と薔薇A子が囁く。
「何を?」
「和人さんの人生を変えるのよ」
「どんな風に」
「和人さんが望むように」
と匂いを揺らしつつ、薔薇B子。
「望むように生きていいのかな」
「もちろんよ。まず何をなさりたい?」
薔薇C子が甘く語りかける。
しばらく考えた。答えは決まった。
「学校を辞める」
こんな簡単なことを今まで考えつかなかったなんて。でも待てよ。
辞めると決めたとたん、甘い秘密を通り越し、愉悦とさえ感じられる辞職を、今の和人は、難なく「人生の痛快事」とすら思うことができた。
しかし、それが今までできなかったのは、多鶴子の存在ゆえだった。
「ほら、それよ」
「それって?」
「多鶴子さん。いいのよ。やってみなさい」
薔薇たちとの会話のとおりにしてみた。学校に出向く前に、言われるままに一つやったことがある。一番好きな木の蕾十個選び、両手で軽く包むことだ。
「心にこころの色を思い浮かべて」
と薔薇C子に言われたとおりにしてみた。
何のおまじないか知らないが、おまじないとは、それが何のおまじないか知らないこと自体に有難味があるのだ。
午後から和人は、久しぶりにF高校に行った。屋上からの立山連峰の眺望が素晴らしいF高校だったが、他には思い出はなかった。そこで和人は、未練なく辞職を願い出た。
型どおりの、もったいぶった一応の引き留めのあと、校長は意外にすんなり辞職を受け入れた。つまりは校長は、善人のふりをしてみたかったのだろう。それが証拠に、「辞職します」と和人がいった瞬間、校長の片頬はゆがんだではないか。
五十五歳で無給で休職中という、経済効率的には空気だが事務手続き上は邪魔者である和人の辞職は、校長にとって願ってもない点数稼ぎであり、好都合な話なのだ。