小説

『薔薇のことば』三角重雄(『聞き耳頭巾』)

「そうか、とうとう俺は頭がおかしくなったんだな」
「みんなそうやってつじつま合わせをするんだわ。和人さんまで。それって面白いの?」
「まただ。聞こえた。いや、聞こえたと言うより、心の中で鳴ったぞ」
「ピンポーン。だって和人さんの心に話しかけてるんだもん。ねえ、私、光を浴びたいの。ベランダに出してくださらない?」
 和人は従った。どのみちおかしな自分が金の成る木に頼まれて、一緒にベランダに出る。なんて絵だ。狂った絵!そう考えると愉快になってきたのだ。
 窓を開ける。さっきの雷をちらっと思い出す。
(ハハハハ世界が焦げたかな)
 和人は別の意味で驚愕し、茫然自失した。
 何ということ!和人の家のベランダの、遠景に広がっていたのだ。
「立山!」
 あまりの威容、不動の、万古長青の故山、雪の大屏風、立山連峰!
 身近すぎて、当たり前すぎて、気がつかなかった。まさに咫尺天涯。富山高岡に生まれ育って、この山なみの、この威容の、この威厳に気がつかなかっただなんて…
 和人の心が変容した。蓋が、…開いた。突然!忘れていたものがあふれ出したのか。溢れだしたのは涙なのか…
 和人は思わず、右手でベランダの手すりを触った。手すりは雨の名残で濡れている。
「あっ!生きてる!」
 雨の雫が、生きていた。そう感じた和人の手も、生きていた。和人は思わず、自分の右手を眺めた。
「気がついた?」
 左手にぶら下がっている金の成る木がいった。
「うん。雨の雫も、この手も、生きている。多分、あの鳥も」
「和人さん、洞窟から出たんだね」 
 その鳥、桜の梢の一羽のヒヨドリが、しゃべった。
「今の、君?」
「アハハ、もちろん」
 和人は半ば分かったが、半ばはまだ、謎の中にいた。
 和人は謎を抱えたまま、思考の合理化を行い、
(そう、俺は生き物たちの声が聞こえるようになったのだ。なぜ?鬱病だからか?そうに違いない。これって、幻聴ってヤツだろう。とうとうそこまで来ちゃったか…)

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