小説

『薔薇のことば』三角重雄(『聞き耳頭巾』)

「待てよ。俺は、閉じこもった。落雷。俺は出た。見回した。誰もいない。声を聞いた。……。おかしいぞ」
「おかしな和人さん、ってば」
「てば、ってなんだ?待てよ…。え~と、右手に指が、一、二、三、四、五、左手にも一、二、三、四、五。俺は、豊本和人。とよもと」
「和人さん、いい加減にして。わたし光を浴びたいのよ」
「ワタシハヒカリヲ…、確かに天気は回復し、晴れた。晴れたら光を浴びたい。…誰?」
「わたし」
(まただ。また聞こえる)
 和人は、愕然となった。
 和人が陥った状態を「思考停止」というのかも知れない。そのどこがおかしいだろうか。おかしいのは「事実」の方ではないだろうか。
「多鶴子は今日は職員会議と言っていた。帰るまでには四時間あるはずだ。長野の百合子が帰るのは月末の土曜日、今日は…」
「水曜日」
「そう、水曜日。…誰?」
 百合子が帰るのは今日ではない。だから物理的に、人語を発するものは誰もいないはずなのだ。
「絶対に!」
「絶対ってなあに?」
「絶対というのは一人でいる時に誰もしゃべらないこと。絶対に!」
「外に出して」
 この部屋は多鶴子の衣装部屋だ。椅子一つ以外、家具はない。誰も隠れようがない。 唯一の隠れ場所のクローゼットには今まで和人が隠れていた。
(だから誰もいるはずがない。けれど誰かの声かした。でも誰もいない)
 和人の頭脳は考える甲斐のないことを、むなしく思考した。
 今は三時。三月のこの時間は明るい。南に面している二階の部屋であるため、六畳足らずの衣装部屋にしては、ここのフロアーは明るく、広い感じだ。広い感じがするのは、何も置いてないためだ。何もないのだが、…あった。
 家具ではないが、観葉植物が置いてある。金の成る木だ。それと…、今…目が合った気がした。和人は息を止めた。
「和人さん、やっと気づいたのね」
 と、確かに木は言った。
「言ったか?木だぞ。言うか?口がないぞ」
「だから人間てつまんない生き物なのよ」
 和人は分かった。

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