小説

『薔薇のことば』三角重雄(『聞き耳頭巾』)

 だから疚しくない。だからバレなかった。むしろバレたら、きっと鬱病が進んだと心配かけるだろう。だから多鶴子のためにも黙っていた方がいいのだ。
 そこで、和人は、次の日もみんなとの会話、罪のない秘密の会話を重ねた。
その朝の会話の相手は、主に和人が可愛がっている薔薇だった。
 和人は、資産家というほどでは全然ない。しかしもともと、豊本家には蓄えがあった。
 祖父の直次郎は伏木測候所で働いていた。長い間、観測員として体感観測を業務にしていたのだ。震度、聴覚、視覚に対して敏感な血は、和人にも流れているはずだ。
 父の祐介は銀行員だった。体感センサー的には直次郎の資質を受け継いでいなかったが、給料は稼いだ。そして、和人に男を教えた。雪国の男というのは、冬の間毎朝早起きをして、黙々と雪下ろしをする者のことをいう。
 母、礼子は小学校教師でピアノが上手だった。和人の耳の良さは、もしかしたら母親譲りかも知れない。
 もう一人、和人に影響を与えたのは祖母の芳乃だった。穏やかな賢母であり、園芸と和裁と料理が得意であった。和人は祖母の膝で育った。高校時代に仲間とトラブって孤独だった時、図書館という居場所があった。その場を得られたのは、読書家の祖母のおかげかも知れない。同じ時期に祖母から料理の手ほどきを受けた。和人の料理の腕は、後日、多鶴子にいいように利用された。
 いずれにしても、懐かしい家族はみんな他界した。そこで、昨日までの和人にとっては、世界という言葉は、和人と多鶴子と百合子を意味していた。
 百合子はいい。あの日立山連峰を仰いで、ため息をつき合った仲だ。
 多鶴子とは…もう、何年心が通わないのだろう。
 そんな和人にとって、薔薇栽培は唯一の生きがいだ。
 和人はガラス張りの軽量鉄骨の温室を作った。かなり大きい。メルヘン工房に何度も足を運んで参考にした。こまめに質問をし、薔薇作りの秘訣を観察し、自分なりに工夫を重ねた。いや、温室自体、工房レベルではないものの、近所でも眼を見張るほどの規模と設備で作ったのだ。冬の間中温かくしている。大雪の日でも壊れたことがない温室だ。
 なぜそこまで和人は薔薇に打ち込んだのだろう。和人が薔薇にのめり込めばのめり込むほど、多鶴子はそこに芳乃の面影をかぎ当て、やっかみ、心を冷たくした。夫婦が離間すればするほど、寂しさの穴埋めとして和人は薔薇に愛情を注いだ。
 悪循環だった。
 それにしても、なぜ?どうしてこれほど薔薇が好きなのだろう。それは、和人が押さえ込んでいる例の塊と関係があったが、和人はその塊の正体に気がつかなかったのだから、自力では解けない謎だった。
 ただ、いいものはいい。薔薇は姿がいい。匂いも最高なのだ。薔薇を例にとって見る限り、外見が美しい人は心もいいというのは、多分本当だ。

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