小説

『やまなしの夜』星谷菖蒲(『銀河鉄道の夜』『やまなし』『押絵と旅する男』)

 水からあがったばかりのように、体が冷え切っている。
「もうすぐ、次の駅に着くよ」
 向かいの少年が、窓から身を乗り出したままに言う。彼の座っている辺りは、まるで濡れそぼったかのように黒くなっている。私は目を瞬いた。
「君、次で降りるのかい?」
「僕じゃないよ。おじさんの切符、次の駅までだろう」
 言われて初めて、右手に切符を握っていることに気付く。私は今まで切符を持っていただろうか。その紙切れは、いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもので、だまって見ているとなんだかその中へ吸い込まれてしまうような気がした。
 少年にならって窓の外を眺めていると、天の川のずうっと川下に青や橙や、あらゆる光でちりばめられた十字架が、まるで一本の木というふうに川の中から立って輝き、その上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっていた。だんだん十字架は窓の正面になり、あのりんごの肉のような青じろい環の雲も、ゆるやかにめぐっているのが見える。
「とてもきれいだよ」
 押絵の兄と彼女にもよく見せてやろうと立てかける位置をずらすと、額から白い光が尾を引いて夜空に飛び出した。光の粉をはらはらと散らして十字架のふもとに辿り着いたそれは、兄と彼女の姿を作っていた。あ、と言う間もなく、列車は走り、十字架から離れていく。遠ざかっていく二人は、決して振り返らない。十字架は見る間に小さくなってしまい、胸にさげられるほど遠くなった。
 額を返すと、押絵の男女が立っていたところだけが綺麗に抜けて、墨黒々と塗りつぶされている。私は絵を、黒繻子の風呂敷に包んだ。
「おじさん、おじさんは次の駅で降りたらどうするんだい?」
「そうだね……旅をしようと思うよ」
「旅をするの? それは素敵だね。どこまで行くの?」
「さて、決まっていないんだ。だからこそ、旅をするのかもしれない。……君はどうするんだい? 本当に、どこまでも行くのかい?」
 少年の頭が、窓の向こうから戻って来た。彼はまだ、十字架のふもとへ行けないのだろう。
「うん。僕は、どこまでも行くよ。本当のさいわいのために、どこまでも、ずうっと」
 黙り込んでしまった少年は、寂しそうに笑って、顔を伏せた。彼が何を思っているのか私にはわからないけれど、本当のさいわいのためならば、彼はどこまでも行くだろうと思われた。

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