小説

『長生き杖』田中希美絵【「20」にまつわる物語】

高校を卒業すると、大学に行くために東京に出た。初めて親元を離れ、初めての彼氏もできて、大都市の新生活はまるで毎日旅行をしている気分だった。郊外に借りたアパートから電車で都心に出て、そこからさらに歩いてどこかに行くのと、都心から新幹線と地下鉄で実家に帰るのは、時間としてはあまり大して変わらなかった。それでも、初めの1、2年は全く帰らなかった。帰ったらその間に何かを逃す気がした。せっかく味わいに来た、手にしかけた、何かが。それなりに心配しながらも、長距離の電話代のことを気にしてか、母は母で自由を満喫したのか、意外にも電話も滅多にかけてこない世代の母とは自然と疎遠になった。

20歳になったある日、珍しく母から電話がかかって来た。 相変わらずの母の声。今度は祖母の番だった。転んで足を折ってしまったという。伯父たちと話し合って、祖母の家も古くなって来ているし、老人ホームに入れることにしたという。からには、一度帰ってきてお見舞いに行ってあげて欲しい、と。自分で行けばいいのに、と思いつつも、初めての彼氏と別れ、街全体が灰色に見えてきていた私は、いそいそとカバンを引っ張り出し た。

久しぶり帰省して、まず祖母に会いに行った。髪が薄くなって車椅子に腰掛けて共同スペースにいた。周りには独り言をいう老人、眠りこけている老人、何もせずに空中をみつめている老人…テレビで相撲の中継がやっているが、誰も見ていない。祖母は初め、妹の名前で私を呼んだ。訂正すべきかと思いながら、ぼうっとした感じは今までに見たことがなく、なかなか切り出せない。そうこうしながら、他に話すこともないのでいとこの噂話などの相手をしているうちに、終わりの方にはかなり元気になってきた。周りでは夕食の準備が始まっていた。夕食前になるとそわそわしだすからその前に帰りなさい、と事前に母に言われていたので、またくるね、と言って廊下に出る。廊下には夕食メニューが張り出されてある。一人暮らしの私からしてみれば豪華で羨ましくもあった。それに向かって、自分の部屋にいた老人たちがそれぞれのペースで向かってやってくる。廊下の手すりにつかまりながらよろよろ歩いてくる老女。歩行器を少しずつ前に押し出しながら、永遠とも思える時間をかけ、それでも前進している男性を、車椅子に座りつつも足で床を蹴って意外とするする進む老女が先を越す。

久しぶりに会った母は、ひさしぶりに帰って来た私を気遣い、食卓には何品もの料理を並べて向かえてくれた。そして私の話を聞きたいと言うよりは、自分の話をよくした。近くの私立大学の社会人向けの講座をいくつかとっていて、新しい友達もいくらかできたようだ。私も私で、色々細かく聞かれても答えに困るような生活をしていなくはなかった ので、母にはそのまま好きに話させて、時々は相槌を打ちつつ、久しぶりの母の手料理に舌鼓をうった。グラタンの皿、というのに入ったおかずを噛み締めながら、はこれに入ったグラタン一つでお腹一杯になっていたころもあったのだなとぼんやりと思う。母に、最近飲めるようになったばかりの日本酒を勧められるがままに飲む。食事が終わる頃には、お酒に強く同じだけ飲んでもケロリとしている母から生まれたとは思えないほど赤くなった私の顔が窓ガラスに映る。

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