小説

『手取り20万円』広瀬厚氏【「20」にまつわる物語】

 ちょくちょく専務はバッキーを自慢の高級外車に乗せドライブに行く。そして彼の言う、行こうか、は行くぞの意味である。それも極めて強制的である。
「ハイハイハイ、ハーイハイ」と、未だかぶさり腰振る工場長の事なぞつゆも気にとめず、トミコの手にするリードを無言で取り上げ、専務は強引にバッキーを引っ張った。
「バ、バ、バッキー」と、バッキーの腰上からずり落ちた工場長が顔をあげバッキーの尻を目で追う。トミコに散歩で蹴られる尻である。
「ごめんね浅井さん、バッキー専務がデートに連れてっちゃったん、オホホホ。まっ、事務所でお茶でも飲みましょん。トミちゃんお茶いれてくれるん」
 大奥様を筆頭に女三人事務所に消えた。
 私はジュジュージュジューと鉄を溶接する。バチバチバチと火花が飛ぶ。ヴィーンキュルキュルキュルとドリルで鉄を穿つ。切り屑が飛び散る。ガーンゴーンガーンとハンマーで鉄をぶっ叩く。ぶっ叩く。ぶっ叩く。脳天爆発しそうになる。
 夏は、ときに室温50度を超えるなか工業扇の熱風を浴び、とろける。冬は、コンクリートの地面に底冷えし、こごえる。春秋でも、過ごしやすい気温20度前後の時期はごく短く、空調なんて言葉は何ぞやらと、縁がない。年中ホコリにまみれ。有機溶剤、有毒ガス、などに健康を脅かされ。作業は常に危険が伴う。
 そうしたなかでやっと手に取るのが、月に20万円である。
 そんなもんさ、愚痴るな、見っともない。それが嫌なら辞めちまえ。と言った声が、私の頭のなかで何度も繰り返す。
 私はいったいどうするべきであるか。手取り20万円のままで、家族この先やっていけるのか。これと言ったあてもなく、ただただ私は煩悶するのみで………

 事実は小説よりも奇なり。正直私はいまだ夢を見ているようである。私達家族は築20年の狭い賃貸マンションを引越し、今では高層マンションの20階にある広い部屋に暮らす。子供達は有名進学校に通い、妻は専業主婦となり複数の趣味を日々楽しむ。

 その日も私の働く工場の中、あいも変わらず工場長は「ひょ〜ん、ふぇ〜ん、ははぁふぅ」とピョンピョン跳ね、社長は「ツルン、テレン、インチキ、適当」を得意に繰り返し、大奥様は意地悪く、若奥様はケチで、専務はいったい何をしているのか分からず、トミコは陰でバッキーの尻を蹴っていた。
 そして私はひとり火花を散らし、鉄を溶接する。
 **バチッ**! と激しく、溶接のスパッターが飛んだその時、私の脳裏に卒然と、あるアイディアが閃いた。
「こりゃイケる!」と、思わず私の口を出た。

1 2 3 4 5 6 7 8