小説

『絶望聖書』柘榴木昴(『クーデンベルク聖書』)

 身体が心臓ごと跳ねあがった。二秒ほど私は心停止していたに違いない。真後ろからかけられた声に振りかえることもできず、ただ沈黙を進めるために呼吸を止めた。いや止まったまま息ができずにいた。神経が震えて網膜と脳が収縮していく。
「そんなに、震えるほど緊張しなくてもいいよ。ぼくは執行人じゃなくて清掃人さ。その本に含まれる思いの重さを拭きとりに来たんだ」
 ぽん、と肩に手を置かれた。暗闇でもわかるしわしわのかさかさで、重みのある手。
 声だけが続いた。
「めくったら始まりの1ページが、終わらない永遠の最初だ」
 呼吸がなんとか、吐くだけならなんとか鼻の穴から抜けていく。
「ぼくは震えるほど清掃人さ。緊張しなくても執行人じゃなくて思いの重さを拭きとりに来たんだ。その本に含まれる」
 いびつな言葉が絡みついて、身体の芯から絶叫した。だが声は音にはならず、代わりに男が私の首を絞めながら頬をつつつと舐めた。体温は低く、舌も乾いていた。何を相手にしているかわからなかった。虚ろ、というよりはむしろまっさらな孤独をまとっていた。言葉はすべて使い終わった乾燥剤のようで、私に届かせる気が無いようだった。だが文章は私に問いかけの形式をとるのだ。
「ぼくは思いの重いを清掃する……操作すると言い換えてもいいかもしれない。この本、クーデンベルグ聖書が持つ重さは人間すべての思いの重さと等しい。なぜかわかるかい」
 男とおなじくらいかすれた声で、かろうじて言葉を紡ぐ。
「わ、わからない。あんたは誰なんだ」
「結果だが、ぼくはあんたを助ける事にもなるんだ」
 ぐっと男の指に力が入る。動脈に沿わされた指に。殺す気か。だが力が入らない。死角からの襲撃は私の勢いを先に殺したらしい。あごの下に爪が食い込む。耳にかじりつくように男が声を吹き込んてきた。
 こ、と、ば、を、う、け、ろ
 遠のきそうな意識の中で男の声紋が乱反射する。だが次の男の言葉で私の全身は覚醒した。嘘だと思った。だが、それは嘘ではないと確信してからだった。
「このクーデンベルグ聖書が発布される以前、人は音読しかできなかった。このクーデンベルグ聖書以降、人は黙読を生み出した」

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