「庇うに値しなかったんじゃない?残業がいやなら、早く仕事の要領覚えることね」
「はあ…」…きついな。さらに落ち込んだ男に「こんばんは」と声がかかる。顔を上げると一人の女性が微笑みかけていた。男はまるで、光が射したように目の前が明るくなった気がした。
「こちら、初挫折を味わった新人クン」黒髪の女の嫌味な新人クンという呼びかたも、今の毒気を抜かれた男にはさほど問題ではない。男は女性を前にして動けなかった。
「そうなの?」心配そうな大きな瞳が男の目の前にあった。
「え、あ、はい」男は辛うじて声を発した。
「大丈夫?何があったの?」女性の顔がさらに近づく。もう息がかかるほどだ。
男はさっきの仕事での愚痴を話したが、意識も目も、全身全霊で男の話を聞いてくれる目の前の女性に集中していた。緩めのカール、いわゆるゆるふわの栗色の髪がうん、うんとうなずくたびに、ふわふわと顔の周りで揺れている。
「それはつらかったね」女性の大きな瞳がみるみる陰る。だが、すぐにパッと光を取り戻し、また満面の笑みになる。
「でもしょうがないよ、新人なんだから。落ち込まないでね」
「そうですよね、しょうがないですよね」男は女性が同意してくれたことが嬉しかった。
「うん、あなたは悪くないよ」女性が男の手を力強く握る。温かい。
「あ、ありがとうございます」男はまるで上官に認められた兵士のように、はたまた神に許された子羊のような心持ちになった。
「少しでも元気になれたなら嬉しい。またお話聞くから、忙しくないときにでも遊びに来て」女性は優しく微笑む。
はい、喜んで!心の声が思わず口をついて出そうになった。
カランコロン。今日も男は『SNACK 北風と太陽』のドアを開ける。
「いらっしゃい」風音(かな)がカウンターから声をかける。いつもの奥から二番目の席に座ると、「ビールね?」と風音がおしぼりを差し出す。真夏のときほどキンキンに冷やされていないおしぼりは、風に秋の匂いが混じるこの季節にはちょうど良かった。ビールを飲んで「はあ…」と大きく息を吐く。風音がちらりと男を見る。
「いや、今週は忙しかったんですよ。うちの課に大きな企画が入って」男は言い訳をするよう言ったが、風音は何も言わず洗い物を始めた。
「でも資料集めとか雑用ばっかで」男は不満気にまた息を吐いた。「どうせだったら、もっと直接関われる仕事したいんですけどね」
「資料集めも立派な仕事でしょ。目にみえないところでの仕事の方が多いわ。その上司だってきっと、あなたの知らないところで、部下の尻拭いをしてるんだろうから」洗い物が終わった風音がキュッと蛇口を閉めて男を見る。