女にいわれて、デー氏は遠い記憶にあるいくつかの場面を呼び起こした。そこには、デー氏が夢を語るたび、どこか不満げなまなざしを浮かべる若くて地味な女がいた。二十年後の彼女が、現実の世界でいう。
「私はね、お金なんてなくてもいいと思ってる。昔からそう。ただ平穏な暮らしのなかで、自分なりの幸せを見つけていけばいい、って。夫もそう思っているし、娘にもそう教えているわ」
ありふれた言葉のなかに、彼女の人生観のすべてが込められているような気がした。デー氏は思わずつぶやいていた。
「……幸せな家庭を持ったのだな」
「ええ。あなたと別れたおかげでね」
女はいたずらっぽく笑った。遠い昔に過ぎ去ったあの青春時代に、何度も見た笑顔だった。デー氏は締め付けられるような痛みを胸の奥に感じた。そして、その愛の悲しみが、じわりじわりと体じゅうに広がっていくことを、人生のささいな幸福と思った。真実の愛は、失せてもなお、あわく美しく輝き続けるものなのだと知った。
「……ひとつ、聞かせてくれ」
「なあに」
「もし、あのとき……二十年前に我々が別れなければ、私も君と、こんな幸せな家庭を築くことができただろうか?」
女の瞳に、初めて小さな揺らぎが見えた。
「……わからないわ。でも、もしそうだったら、素敵よね」
その答えは、デー氏に深い悲しみと不思議な満足感を与えた。
「……そうだな。たしかに、素敵だ」
短く答えて、デー氏は札束と小切手を懐にしまった。もう帰るべき時間だと思った。
と、そのとき、玄関ドアが開く音がした。彼女の夫が帰ってきたのかと、デー氏は一瞬緊張したが、つづけて聞こえてきたのは女の声だった。
「ただいま」
「おかえり。――ごめんなさい、娘だわ」
「……すまない。すっかり長居をしたな。元カレだなどと、紹介せんでくれよ」
デー氏が小声で軽口を叩くと、女は無言でウインクしてみせた。彼女の娘の声がつづく。
「誰か来てるの?」
「ええ。ママの昔のお友達。あんたでも知ってる大企業の社長さんなのよ。ごあいさつしなさい」
「わー、すごーい」
明るくいいながらリビングに入ってきた娘は、デー氏を見ると、急に表情をこわばらせた。デー氏がチビでハゲでデブでブサイクだからではない。デー氏も相手を見て固まってしまった。