郷田を眺める幸せは、波に身をゆだねている時の絶対的な信頼感と畏れの薄い布をまとってる感覚に似ていた。
甘美だった日々にまみれていたかったけど、それは長くは続かなかった。
引き継いだ<みらーじゅ雑貨店>に盗みが入って、よりによって栞の日々を支えていた郷田蜃気楼の器だけが盗まれてしまったのだ。
栞は、郷田のいない毎日をそんなに愛情のないガラクタに囲まれて暮らすことに苦痛を覚え、店は閉めることにした。
それから何年かが経ったある日。
真っ黒い表紙におおきな数字がひとつ白抜きされた本を終電近くの電車に乗ってドア付近で立ったまま読んでいた。
たぶん、恵比寿あたりを通過した時、なんだか前触れもなく車両の前の方から順々に電気が消えていった。
ドミノ倒しのように、規則正しいリズムで車内の灯りがとんとんとんと、落ちてゆき、またたく間に真っ暗になった。
少しずつゆるやかに速度を落としながら走る電車。ホームの灯りがまぶしく感じられるぐらいに、見知らぬ者どうしは闇の中に暫くいた。
停電とは違う、栞の乗っていた車両だけってところが、ふしぎな感じで、あたりの明るさとのコントラストを異次元の出来事のように浮かびあがらせていた。
暗い車内からネオンきらきらの明るい場所を見る。いつもの日常が、何処か中心線をずらしているみたいに目に映る。それでもゆるりゆるりと走っている電車は栞たちの車両だけが、ちがう運命を持ちながら、まったく知らない場所へと誘おうとしているかのようなリズムだった。
ちょっとアングルをずらした世界を待っていたみたいに、そわそわした。でもそのそわそわを軽くいなすように平常はとつぜん戻ってきた。
しばらくすると、一駅分闇を抱えながら走った電車に、逆ドミノのような感じで、灯りがとんとんと順序正しく点った。
なにも起こらなかった姿で元の明るさを得ると、ちょっとつまらない感じもしてきて栞は再び本のページをめくる。
何行か読み始めた時、栞はとっくんと鼓動を感じた。誰かじぶんじゃない身体の器からはみだしてきた音なのかと錯覚しそうなくらい脈打っていた。
いまさっき、ふいに灯りをなくしてしまった車内のように、その小説の中では、窓のないエレベーターの中で<いちどにすとんと照明が落ちて闇に>なるシーンが描かれていた。ちょっとした偶然の一致を目にして、懐かしい胸騒ぎを覚えた。
レールの上を走るひと部屋の箱の中だけが、灯りを脱いでいる今しがた。
気がつくと、栞の前には見知らぬ初老の男が座っていた。