小説

『偶景と旅する男と』もりまりこ(『押絵と旅する男』)

 栞とその男以外、誰にも車両にいなかった。
 一瞬の停電の間にほかの車両へと移ってしまったのかもしれない。
 その男は大きな荷物を持っていた。鍵付きの黒革のケースに入っていた額のようなものを車窓に向けて立てかけていた。
 その男はジャケットにスラックス姿の身ぎれいな老人だった。
 初老になると、見知った人間でなくとも隣り合わせた者と喋りたくなるらしく、男は栞に声を掛けた。
 ただ、視線は交わしたくないらしく、目を合わそうとはしなかった。
「パリの蚤の市でみつけましてね」
 初老になると、文脈は飛んでゆくらしい。
 硝子の器の中の郷田蜃気楼が盗まれてから、何をですか? と訊ねる社交すら失っていた栞は、黙ったまま笑みだけをその男に投げかけた。
「今日は、車窓からの景色を見るのが一番の日でしてね。それを車窓日和と彼は呼んでましてね。彼のたっての願いだったもんですから」
 跳ねてゆく言葉はふしぎと栞の耳に着地してゆく。
「ほら、あなたも窓の外ををごらんなさいよ」
 栞は、窓の向こうよりも車窓に立てかけてある額のことが気になって仕方なかった。さっきちらっと見えた額の中に見覚えのある、ロッキングチェアが、揺れていた。
「それって、なんですか。その額のような」
 無理して口を開いたのに、男は聞こえないのか聞こえないふりをしたのか返事はなかった。さっきから男はずっと栞と視線を交わさない。
 ふいに<視線をあわせた時に終わってしまう何かを恐れていたのです>というナレーションの言葉を思い出す。
 テレビのフレームの中には、未完成のままのミケランジェロのピエタが映しだされていた。大理石の中に潜んでいるなにかを彫刻しようとした時間が、そのままむきだしになっているような作品だった。
 そこに彫刻されていた母と息子の視線は交わらないままで。視線をあわせると終わってしまう何かっていうフレーズを聞いて、栞は郷田蜃気楼を思い出していた。出会うってことは、はじめに出会うのは相手の眼なんだって突然気づいたことがあった。郷田の店に初めて訪れた時も、そうだった。誰も座っていないロッキングチェアが揺れていた。その隣で、短調な調べの曲に合わせて、髪を黄色く染めた男が踊っていた。それが郷田蜃気楼だった。うねるように揺れていた。椅子の揺れと男のゆらぎが同じ種類のようにみえてくる。椅子と男はたがいのリズムを分け合っているようだと思った刹
那「いらっしゃい」って声が聞こえて郷田と目があったのだ。

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