小説

『人魚とダンス』戸田鳥(『人魚姫』)

 人魚は不満そうに口を尖らし、
「じゃあきみが教えてよ」
 そう言われて困った。ダンスなんて、子供の頃のフォークダンスと盆踊りくらいしか知らない。どちらも一人で踊るものじゃない。
 そうだ、ひとつ思い出した。去年、社交ダンスをやってる友人から教わった。一番簡単なステップだって。夜道でふざけて、男同士で向かい合ってぐるぐると踊ったのだ。
「二人組んで踊るんですけど、いいですか」
 言葉にすると、変に恐縮してしまう。
「いいわよ。舞踏会のつもりになるわ」
「ちょうど舞踏会で踊るようなダンスですよ」
 僕は遠慮がちに人魚の手を取り、右手を彼女の背中に置いた。彼女の身長は僕と同じくらいで、あまり近寄ると鼻がぶつかりそうだった。人魚はとくに嫌がりもせず、眼を見開いて真剣だ。
「こっちの手を僕の腕のこの辺に置いてください。そうそこに」
 体温が急上昇しているのがバレないように、クールを装いステップを思い出す。
「僕の足に合わせて、いち、に、さん、いち、に、さん……」
 ワルツのステップと言っても知っているのはひとつきりで、同じ動きをただ繰り返すだけだ。フォークダンスより単純だった。人魚は足元を気にして下を向いてばかりだったが、次第に慣れてきて楽しそうな声をあげた。音楽があるとよかったなとぼんやり考える。それでも、スマホを検索するために中断する気にはなれない。
 そうしてるうち、小雨が落ちてきた。
「いち、に、さん。いち、に……」
 低い声で人魚がカウントする。
 波の音に重なる彼女の声が心地よかった。波と人魚の声、それにひそやかな雨音が合わさって、僕の耳元で静かな音楽になった。胸が触れそうな距離で同じリズムに揺られていると、一緒に波に揺られているような感覚を覚える。心臓の鼓動まで重なり合って聞こえる。
「いち、に……」
 踊りながら、僕はうっとりまどろんでいた。この夢が覚めるのが惜しくて、雨に濡れて僕らは日暮れまで踊った。

 
 翌日は朝から快晴だった。
 ニンノさんのためにと特製の弁当を持たされて、人魚と堤防へ向かった。人魚は銛を持って車に乗った。
「靴ずれとか大丈夫ですか」

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