小説

『人魚とダンス』戸田鳥(『人魚姫』)

「靴ずれ?」
 初めて聞く単語に人魚は首をかしげた。
「かかと、見せてください」
 人魚はパンプスを脱いだ。その足はつるんときれいで、靴の跡もついてない。これは模造の足なのだから、と僕は考えた。いわば作り物なのだから、きれいなのは当然なのだ。
「なんなの」
「いえ……」
 人魚は手のひらで自分の足を大事そうに撫でて、靴を履きなおした。
 堤防に着くと、僕はiPodをセットした。昨夜のうちに、ワルツを踊れそうなものを選曲して入れてきたのだ。人魚は小さな機械を興味深そうに見ていたが、踊りたくてたまらないのか、僕の袖を引っ張った。波の音に消されない程度に音量を調節し、ポケットに押し込む。
 ダンススクールのサイトで初心者用のレッスン動画を観ておいたので、見よう見まねのステップを踏んでみる。正しかろうが間違っていようが、人魚が楽しければ構わないのだから。
「いち、に、さん……」
 人魚は始めのうちカウントしていたが、曲に慣れてくると黙って音楽に乗った。昨日とは見違えるほど軽やかなステップだった。舞踏会で王子と踊っている気分なのだろう。明るい曲に笑顔で踊る彼女につられて、僕のステップも大きくなった。人魚を抱いて力強くターン、したはずが、着地するはずの地面を見失い、次の瞬間には海に落ちていた。堤防の上だってことを忘れていた。もちろん人魚は水に落ちても余裕で、焦ってじたばたする僕を軽々抱え上げた。堤防に上ってへたばっている僕を、人魚は面白そうに見下ろした。
「きみ、泳げないの?」
「泳げます。泳げますけど……いきなり落ちたんで」
 人魚はクックッと笑うと、僕を放ってひとりでワルツを踊り出した。片手を宙に伸ばして、もう片方の手で空気をつかんで。防水ケースに入れてあったiPodは、切ない曲調の歌を流している。
 あーもう駄目だ。なぜだかそんな台詞が浮かんだ。踊る人魚に見守られながらこのまま死のう。
 眼を閉じたところを、ぎゅっと鼻をつねられた。二つのオパールが僕を覗き込んでいる。
「お腹すかない?」
 それで僕は生き返った。

 弁当には魚料理が詰まっていた。鯖の味噌煮、白身魚の竜田揚げ、マグロのステーキ。人魚はもりもり食べた。僕が残したおかずを食べるほどの食欲だった。

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