小説

『マッチは友を照らす』朝宮馨(『マッチ売りの少女』)

「え……?」
「大崎で俺が乗ってた電車が事故ったっていっただろ。あれは嘘。乗ろうとしてた電車の前に転落して俺が電車に乗られたんだ」
 急にうつろな表情になった松田を見て、俺は血の気が引いた。
 じゃ、この松田は……? いやいや、そんなことがあるわけない。こいつ冗談きついぜ。
 だが松田は続けた。
「カウンター席にしたのはタバコを吸わないお前のためじゃない。轢かれた時にタバコとマッチがどっかに飛んでいっちまったからさ」
 松田は空の胸ポケットを開いて見せた。
「都会の連中は冷てえよな。人ひとり死んだのに、よそでやってくれだってよ」 
 俺は松田の顔が見られなくなった。近くに店員も客も大勢いるのに、彼らの世界から隔絶されたかのようだった。
俺は今、どっちの世界にいるんだ?
 動揺した俺は、自分がいるべき世界にいることを確かめたくて椅子を思いっきり引いて立ち上がった。店員や客たちの何人かが、俺の方を振り向いて見た。
すると松田がゲラゲラ笑った。
「バーカ、本気にするやつがあるか。ほら、タバコならここにあるよ」
 と松田は尻のポケットからタバコとマッチを取り出してカウンターに置いた。
 俺は全身の力が抜けて椅子にへたりこんだ。と同時に三十年ぶりに再会した旧友にこんな笑えない冗談を仕掛けられたことに腹が立った。俺は松田に会えて本当にうれしかったのに……。
 俺の険しい表情を見て、松田はさすがに悪いと思ったのか、店の大将に声をかけた。「すんません、八海山下さい。久保田の一番いいやつもね。あ、ここは俺におごらせてくれ」と昔ながらの笑顔を見せた。
 俺の気はまだ収まらなかったが、せっかくの再会を台無しにするのももったいない気がした。気分を切り替えるためにトイレに立ち、帰りに顔を洗った。ペーパータオルを三枚使って顔を拭き、蓋のない屑入れに放り込もうとした瞬間、見覚えのある錠剤のアルミパッケージが見えた。俺はそれを見てしまったことを記憶から消すように、屑入れにペーパータオルを押し込んだ。
 俺は席に戻って深呼吸をし、松田の笑顔を大袈裟に真似てみた。松田は大笑いした。
「笑うなよ。お前の顔を真似しただけだぞ」
「俺、そんな顔してねえから」
「してるよ、三十年前から。知らないのはお前本人だけだよ」
「そうかなあ? 鏡見ながら笑ったことねえからな」

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