小説

『マッチは友を照らす』朝宮馨(『マッチ売りの少女』)

 だが俺は出勤で急いでいたので名刺にメールアドレスをメモして渡し、とりあえずメールをくれ、と言って別れた。松田は「ああ、あとで必ず送るよ」と言ってまた檻の中に戻っていった。俺はさっきまで口もききたくないと思っていた原始人の中の一人だった旧友に、「じゃあな」と手を振った。松田は新しいタバコを取り出し、今どきめずらしくマッチで火をつけながら俺を笑顔で見送った。 

 会社に着いて数分後に松田からのメールがあり、「マッチへ 今朝は久しぶりに会えてうれしかったです。今夜は七時過ぎには空いてるから、良かったら居酒屋でもどう? 今朝会った喫煙所から見える『越後の地酒と料理の店』で待ってます。忙しかったら無理しなくていいけど連絡だけちょうだい。 セイコ」とあった。おいおい、女みたいな文章でセイコなんて書いて、もしもうちの奥さんに見られたら女と間違われるだろうが。
 俺は松田のメールに「分かった。俺も早めに仕事を片づけて行く。楽しみにしてる」と送り、松田からのメールを用心深く削除した。
 仕事の後の楽しみができたせいか、この日の仕事ははかどった。
 七時少し前に浜松町に着くように新宿のショールームを出て山手線に乗った。ところが目黒を出てしばらくすると急ブレーキがかかり、電車が止まった。ざわつく車内にアナウンスが流れた。大崎で人身事故が起きたらしい。こうなると当分は動かない。いつものことだが乗客たちが一斉にスマホや携帯電話を取り出してどこやらと連絡をとり始めた。俺も今朝、松田に送ったメールにかぶせて『大崎で人身事故。多分、他の電車で行くからちょっと遅れるかも。ごめんな』と送った。
五分ほどして松田から『大崎駅で事故った電車に乗ってた。五反田から都営浅草線に乗り換えて大門まで行く』と返事が届いた。
 俺が乗っていた電車がバックして目黒駅まで戻ったので、そこから俺も都営線を乗り継いで大門へ急いだ。三田駅で浅草線に乗り換えた時、ひょっとして松田も乗ってるんじゃないかと見回してみたが、見つけられなかった。
 俺が大門の駅で降り、今朝、松田と出会った原始人の檻の下方面に向かって歩いていると、少し先に『越後の地酒と料理の店』という看板が見えてきた。あいつの方が早く着いてるだろうな、と思いながら店に入ると、松田がハンカチで手を拭きながらカウンター席に座るのが見えた。俺が声をかけると松田は口を八の字にして二カッと笑った。
 その店は分煙形式でカウンターやカウンター近くのテーブル席は禁煙だが、奥の座敷は換気扇のついた喫煙席だった。俺は席に着く前に、
「カウンターでいいのか? 松田はタバコ吸うんだろ?」
 と聞いた。松田は一瞬間をおいてから、手をひらひらさせて笑った。

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