小説

『常春の国』金子葵(『桃花源記』)

「ねえ、お茶淹れて来るわね。ひと心地ついてからお帰りになって。」
「あ・・・」
 断りかねて部屋に残されたツキコは、所在なく何度も腕時計を眺めた。

 ふと、背後から高らかに鳥の鳴き声が響いた。立ち上がり縁側から上を見上げると、2階まである桃の古木が、大輪の花を咲き誇らせていた。
 その鮮やかな朱色は、ツキコの視界いっぱいに広がった。その花弁、顎のかたちまでもがひどくはっきりと身の内に入り込んできて、彼女は桃と自分とが混ざり合ったような気がした。

 どのくらいそうしていたのか、桃花から目を落とすと霧に包まれていた。ツキコは我に返って辺りをうかがい、そのまま前方に進んだ。わずかに霧が開けると、大勢の人影が見えた。
「おやめずらしい。客人か。」
 人影の中から、直接頭に響くように声が聞こえた。つやのある美しい声だった。
 大勢の人影は、地べたに敷かれた鮮やかな色の絨毯の上に座っていた。声の主は一番手前の女性だった。髪は高く結いあげられ、抜けるような白い肌に血色が浮かぶ。服装は、奈良時代くらいの格好だろうか。古そうな琵琶を膝に乗せている。
 女性の周りには6人の男性がいた。長い白髭に禿げあがった翁、小槌を持った恰幅のいい男、それから武人風の装束の男・・・みな釣竿やら杖やら大きな袋やらを手にしていて、既視感を覚える風貌だった。その奥にも人影が見えるが、霧で姿まで確認できない。
「何用じゃ。」
 武人が太い声で言った。
「おとづれたからには、所望があろう。寿老人、見て奉れ。」
 奈良時代風の女性に頼まれ、杖を持った老人は、穏やかな瞳でツキコを眺めた。ツキコは、突然自分の内側が透明になったような感じがした。
「春来ぬと、申しておるな。」
 今度は釣り竿の男が笑いながら言う。
「春来ぬと?何ゆえそのように申す。」
「ほほ、そう言うな恵比寿。見た目に捉われて、見えぬのが人よ。」
 他の者たちもさざめくように笑った。
「よいよい。では、この福禄寿が見せて奉ろう。」
 先ほどの寿老人とよく似た翁が杖を振ると、得も言われぬ甘い香りが漂った。

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