その若い男は自身が乗る播種船の乗組員だった。
マダムと待ち合わせをしたその日、緊急警報が彼のインプラントに届いた。
「至急、司令室に出頭せよ」その内側に地球と同じ環境を作り出す巨大な船体に似合わぬ短い通信だった。男はここが船であることを知る数少ない乗組員の一人だった。あまりにも長い時が流れ、科学者を中心とした<最初の>乗組員のことは、最早伝説としても船内には語り継がれてはいなかった。
船内AIたちは、ただ彼らの暮らしを見つめていたが、人工子宮で育てた少数の操船パートナーだけは絶やすことなく維持し続けた。彼らは船内を旅する者として、街や村を移動し続けて人々の暮らしを見守っていた。
その船は小惑星帯で建造された、ひと世代をかけた人類史上最大の構造物だった。船というよりは天体に近い存在だった。操船と環境維持は「文殊」「多聞」「般若」の三台のAIに任されていた。目的は宇宙を旅する事。ただそれだけである。ただ遠くへと旅をしたい、そんな想いだけで造られた船だった。終着地などはそもそも考えに無かった。まずはアンドロメダ星雲を通り抜け、可能な限り遠くへとひたすらに旅をする、それがこの船の建造目的だった。地球丸ごとといってもいいだけのDNAのアーカイブを搭載していた船は、人類に適した環境の惑星を発見した場合に限り、必要なだけ速度を緩めヒトという種を撒くつもりではあったが、その場にとどまるつもりなど毛頭無かった。
太陽系を旅立って以来順調に加速を続けてきた船が、銀河系の公転を利用したフライバイも滞り無く済ませてようやく銀河間の虚無へと乗り出した時のこと。突然「視界」に超高速移動をするブラックホールが現れた。今抜けてきたばかりの天の河銀河の影に隠れて発見が遅れたのだ。そのはぐれブラックホールの進路は船にとってあまりにも危険すぎた。
人類が創り上げた最速の量子コンピューターである<文殊>は、崩壊していく船体の損傷を最小限に食い止めるべく、船内用動力を全て徴用し、ナノボットを繰り出し、動員出来る全てのリソースを使って内破だけは食い止めた。<多聞>は人類の記憶を残すためにメモリーキューブを作り続け、予想される進路上に発射し続けた。
そして、その船の名前の由来となったAI<般若>の全エネルギーを投入した操船にも関わらず、船はブラックホールの重力の擾乱に巻き込まれてその質量の半分を失った。その嵐の中<多聞>は事象の地平へと落ちてゆき<文殊>は機能のほとんどを失った。船内の損傷は免れたものの、最早環境を維持するだけのエネルギーを失った船は、船内の温度が外宇宙のそれと平衡していくことを止める術を持たなかった。
嵐が過ぎ去った後、残された<般若>は傷ついた船体を修復すべく、辺りを見回し資源を探し続けた。宇宙空間に漂う星のかけらは多くはなかった。故郷である天の河銀河を離れてしまった直後だっただけに、修復のための資源の確保には果てしない忍耐が必要だった。
そしてまた時が流れた。