二人の姿が闇に溶け込んでしまいそうになったその時、玄関の鈴がちゃりんと鳴った。
「あら、お客様だわ」マダムが驚いたようにつぶやく。
少女は銀のお盆を手にすると、ぎこちなく微笑んで玄関に向かった。
ドアがためらいがちにゆっくりと開くと、そこには女が一人立っていた。中年と呼ぶにはまだ早い歳だろうか、小柄で地味な女だった。着古した着物を恥ずかしく思うのか、乱れた髪を気にしているのか、片手でしっかりと胸元を押さえながら、もう片手があちこちにさまよっている。疲れ切り、途方に暮れているようだ。
「夜遅くにすいません。あの、道をお尋ねしたいのです」
マダムは手に持っていたグラスをカウンターに置き、驚いたような愉しむような表情で答えた。
「いらっしゃいませ。こんな夜遅くにどちらまで行かれるのかしら。少し休んでおいきなさいな」
女は言葉を詰まらせ、さらに恥ずかしげに後ずさりをする。そんな女を見つめていた少女が女の手を取り、店の中に誘う。マダムが微笑みながら真向かいの席を掌で示した。女は諦めたのか、少女に引かれるまま椅子に座った。
「さぁ、冷える夜にはこれが一番」マダムは白磁の徳利を背後から取り出し、これもまた白磁のお猪口に透明な液体を注いだ。女はうつむいたまま顔を上げようともしない。
「さ、疲れたでしょう。おあがりなさいな」再度マダムに言われると女はぺこりと頭を下げ、そっとお猪口を持ち上げる。少女とマダムが見つめるなか、女はゆっくりとお猪口に口をつけた。その酒は雪解け水のようにするりと女の喉を通り過ぎていった。
「甘い。こんな美味しいお酒、初めてです」相変わらずか細い声で女が言い、お酒を飲み干した。
「そう、それは嬉しいわ」マダムが二杯目を注ぐ。
やや緊張を解いた女は、ふうっと小さな溜息をついた。そんな女に何かを見てとったのか、少女は興味を失ったらしい。また辺りを歩き始めた。
「どちらからいらしたの?」マダムが尋ねた。
「向こうの山を越えた所にある、小さな村から来ました」女は椅子に座ったまま体をねじり、方角を指さしながらこたえた。マダムが煙草に火を点け、煙を吐き出しながら更に尋ねた。
「どうしてこんな夜中に?」
女はためらいがちにぽつりぽつりと話し始めた。
女はさらに二つ山を越えた、さらに小さな山村の生まれだった。小さな頃から父親と一緒に田畑を耕しながら暮らすことに小さな幸せも感じていた。そんな時突然父親に「嫁に行け」と言われ、否応も無くまたさらに山二つ越えた農村に嫁いだのだという。