小説

『弧の増殖』末永政和(岡本綺堂『海亀』)

 海亀の歩みを止めようと、私はその場にしゃがみこんだ。目の前に、海亀の皺枯れた頭がある。海亀は新たな壁にようやく気づいて、重たい顔をゆっくりと持ち上げた。
 私は「あっ」と声をあげて、その場に尻餅をついていた。情けなく後ずさりしながら、しかし眼前の異形から目をそらすことができなかった。
 目の前にあったのは、人の顔だった。厚い皮膚に覆われたはずの海亀の顔は、確かに人間の目鼻をつけていたのである。月光の加減で、たまたまそのように見えたのかもしれない。薄暗い砂浜で、確かなものなど何もないのだ。しかし目の前ににゅっと突き出ているのは、やはり人の顔なのだった。初老の女のような、悲哀を帯びた顔が、物憂げに私を覗き込んでいた。
 海亀は歩みを止めることなく、私に覆いかぶさるように顔を近づけてくる。腐ったような潮の臭いが、むっと漂ってくる。歯ぎしりのような音が聞こえてくる。私は必死で後ずさりし、やがて夢中で駆け出して、消波ブロックのうえに這い上がった。ここまでは追ってこれまい。しかしそれも間違いだった。数日前に息絶えたのであろう、別の海亀がブロックの向こうに転がっていたのである。どこかブロックの隙間を見つけて潜り込み、なんとか産卵を終えたはいいが、海には戻れなかったのだろう。その顔もやはり、人間の顔そのものだった。
 どこかで見た顔だと思った。昔ひどいことをして放り捨てた女に似ているような気がした。なんとなく情を重ねて、なんとなく肌を重ねて、子どもができたと聞かされたところで現実にかえって、無理に中絶を迫った。それきり彼女がどうしているか知らない。知ろうともしなかった。
 雲間が晴れて、月光があたりを皓々と照らし出した。もがき苦しむ海亀が、新たな円弧を刻んでいた。そしてその向こう、波打ち際に目をこらすと、数多の海亀が波に押し出されて砂浜を歩んでくるのだった。若い顔もあれば、老いた顔もあった。逃げ場をふさぐように、てらてらと月明かりに濡れた甲羅をびっしりと並べている。そのいずれもが、やはり人間の顔をしているのだった。

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