守天は、「綱どのは儂の方が先約じゃのに」と不平を漏らしましたが、鬼使いには逆らえません。つまらぬと呟きながらも、足止め役を引き受けました。
「ここはひとつ、後の世に名を残すような大暴れをしてやろう」
鬼が胴間声を張り上げた時、楼門から大音声で呼ばわる声がしました。鬼は嬉しそうに目を細めます。「誰ぞ」とひと声、木々の葉を落とすほどの大声を出すと、宙を舞って楼門の前に降り立ちました。
渡辺綱は一人、桃子姫を追って廃寺に忍び込み、鐘楼の陰から様子を窺っておりました。一部始終を見ていたのです。集落の実態を目撃し、姫君達の無事も確認し、仁王丸の決意を知りました。
戻って主人に真相を報告せねばなるまいと考えていたところ、頼光の一行が楼門を叩いたのです。
今となっては戦いを回避することは出来ません。守天が飛び、仁王丸が寺の奥へ去るのを見届けると、綱は潜んでいた場所から出て廟堂へと向かいました。
待ち構えていた仁王丸は何も言わず、抜き身の打刀を相手に向けます。綱も髭切(ひげきり)の太刀をすらりと抜くと、裂帛(れっぱく)の気合いとともに切り掛かりました。
一合、二合、鋼と鋼がぶつかり、火花が散ります。綱は驚き、片方の眉をはね上げました。三合目を斬り結んだ時、仁王丸の腰が相手の体を跳ね上げ、武人は背中から地面に叩きつけられました。必死の気合が体格と武芸の劣勢をひっくり返したのです。髭切は手を離れ、傍の草むらに落ちました。
「綱どの、頼みがある」
仁王丸は組み敷いた相手に語りかけました。思いもかけぬ不覚をとった綱は、驚きのあまり呆然と彼を見返します。首筋には打刀の冷たい鉄の感覚がありました。
「俺の首を獲(と)れ」
「待て、待て、仁王丸よ。そなた何を言っているのだ」
綱は驚き、混乱していました。格下の相手に投げ飛ばされた上に、自分を組み敷いた敵が、「首を獲れ」と言い出したのです。
「異人を討って手柄とするがいい。その代わり、なでしこを逃がしてくれ」
見開かれていた綱の目が、瞬きします。
「吾を殺して二人で逃げようと考えないのか」
「帝の命を受けた頼光の家来を殺したら、源家も朝廷も全力で俺を追うだろう。逃げ切れる訳がない。故里(ふるさと)にまで迷惑を掛ける。また命を取らない代わりに見逃してくれと頼んでも、真の武人である綱どのが承知する筈がない。仮に首を縦に振ったとしても、俺が力を緩めた途端に約束を破り、使命を果たすに決まっている」