小説

『なでしこの花』羽矢雲与市(『酒呑童子』)

 守天は仁王丸の流した血の上に座り込みます。渡辺綱が剣先を上げて歩み寄ると、鬼は思わぬ事を口にしました。
「頼光どのが間もなくここへ来る。首を刎ねるのはそれからにしてもらえないだろうか」
 油断なく剣を構えながら、綱は願いを受け入れました。ところが鬼は、再び願い事を口にします。逃げも隠れもしないから、芝居に付き合ってくれないかと言うのです。
 迷った綱は髭切を鬼の首筋に当て、話してみよと命じました。
 守天は「それではまず道具と役者を整えさせてもらう」と、仁王丸の手首を拾い上げて念じます。あっという間に形が変わり、守天そっくりの生首になりました。
「何をする気だ。吾らをだますのか」
 綱は首筋に当てた刀をぐっと押し付けます。驚いたことに刃の下にあるのは筋骨隆々の丸太のような首ではなく、若い女性の細いうなじでした。鬼は変化の術を用いて、なでしこに成りすましたのです。
「おのれ、愚弄する気か」
「慌てるな。ここで死んだ方が、この娘の為に良いであろう」
 綱はしばらく考え、ふむと頷きました。
「続きを話せ」
 なでしこに変化した守天はゆっくりと首を回して綱を見上げます。その髪には一輪の花が挿さっておりました。
 こうして鬼神・守天はなでしことして、源頼光の前で首を打たれました。仁王丸が綱と交わした約束を代わりに果たしたのです。

 渡辺綱はその後も数々の手柄を立て、後世に語り継がれる武勇伝を残しました。因幡の山深く、異人の集落で暮らす仁王丸となでしこの耳にも、その評判は聞こえて来ます。
 綱は後年、正五位下・丹後守に任じられてからも、撫子の花を見ると二人のことを思い出しました。けれど草深い田舎で暮らす老夫婦の消息など、京に住む彼の耳に伝わることはありませんでした。

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