小説

『なでしこの花』羽矢雲与市(『酒呑童子』)

 沢へ下りて洗濯をしていた彼女は、川の下から山を登って来る源頼光の一行を見かけました。どうやら武人達は、山間に立ち上る飯炊きの煙を目指しているようです。
「鬼の棲家はまだ先か」
 彼らが口々に、「早く鬼どもを打ち殺したい」と大声で言い募るのを聞いて、桃子姫は洗濯物を打ち捨て、大急ぎで坂を登ったのでした。
 屈強な武人がやって来るという情報に、小さな集落は大騒ぎです。三年前からこの日が来るのを予測していた仁王丸は一人、驚くほど平静でした。
 彼は皆を本堂の前に集めました。
「源頼光殿と四天王が間もなくここへ来るだろう。俺と守天を退治するのが彼らの使命だ。皆は抵抗さえしなければ、命まで取られることは無い」
 彼の言葉を聞いて、人々は騒ぐのを止めました。
「京へ戻りたくない者、捕まると罰を受ける者は山へ入り、尾根を伝って逃げろ」
「頭領はどうなさる」
 仁王丸は皆に、渡辺綱に顔を見られていること、たとえ一時は逃れても、朝廷や武家に追われては到底逃げ切れないことを説明しました。
「俺と守天は、ここで頼光殿や綱殿を待つ。異人の鬼使いと武人の芸と、どちらが勝るか試そうと思う」
 桃子姫は中納言の姫を連れ、他の女房たちと僧坊へ入って頼光達を待つことにしました。桃子姫の思い人や、男たちの半数ほどは彼女達を守る為、行動を共にします。
 残りの二十名ほどは、仁王丸となでしこに礼を言うと、山中へ姿を消しました。
「私はけっして、京へは戻りません」
 仁王丸が問いかけるよりも早く、なでしこが答えました。彼は何も言わず、荒れ果てた寺の一番奥にある廟堂(びょうどう)を指差します。彼女が首を横に振ると、彼は初めて聞く優しい声音で言いました。
「守天が楼門(ろうもん)で頼光と他の者達を食い止めている間、俺はあそこで綱殿と決着をつけるつもりだ。もし勝てば……、その時はまた、お前をさらってやっても良い」
 なでしこは黙ってうなずくと、霊廟へと歩き始めます。鐘楼(しょうろう)の下を通りかかった時、足下に咲いていた撫子の花を摘んで髪に挿(さ)しました。
 彼女を見送った仁王丸は鬼神を呼び出します。寺の入り口、楼門で渡辺綱だけを通し、頼光と残りの四天王を足止めするよう命令しました。

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