仁王丸となでしこは鬼の背に飛びついて、大急ぎで邸を後にします。慌てたせいで、姫君を連れて来てしまいました。
「京で仕事を続けられなくなるかもしれん」
仁王丸は頭を抱えました。
彼の生まれた山間(やまあい)の部落には不思議な血筋が伝わっておりまして、何人かに一人、獣や鳥、鬼神(きしん)などを呼び出す異能を持った者が生まれます。彼らは「異人(いじん)」と呼ばれ、畏れられておりました。
異人ごとに呼び出すものは決まっており、部落の長は牛よりも大きな猪、土蜘蛛(つちぐも)と名乗る者は釣鐘ほどもある蜘蛛、仁王丸は鬼神・守天を呼び出します。
彼らは成人すると出稼ぎに行くのが掟でした。人に雇われて異能を使う仕事をし、褒美の一部を仕送りして部落を支えているのです。
仁王丸は三年半前に京に来て、貴人の護衛、諍(いさか)いごとの助太刀などをしておりました。彼と鬼神・守天は人気があり、当初は引く手あまたでした。
「四天王に顔を見られては、迂闊(うかつ)に京(みやこ)を歩けない」
「顔を見られたのは綱どの一人だけですのに。仁王丸は臆病風に吹かれましたか」
怒った彼が膝を立てますと、守天の分厚い手が上から押さえつけました。
「けんかはやめろ。お姫さんが起きたら面倒だ。お主は頭領だろ、どっしりと構えていろ。なでしこ姫もこいつを煽るな。心配せずとも儂が居る」
「私は姫などではありません。ただのなでしこです。それに心配なぞ致しておりません」
ぷいと横を向く彼女は、三年ほど前まで公家の邸で姫君と呼ばれていました。もっとも彼女の家が隆盛であったのは曽祖父の代まで。没落した家に生まれた彼女は、とても貴族とは呼べぬ貧しい生活を送っていたのです。
「私を攫(さら)って下さい。面倒だと言うのなら、その鬼に私を食らわせて下さい」
邸に忍び込んだ若い男と、彼に従う恐ろしい鬼を見て、ためらいもせずに彼女は庭へと降りて来ました。
十三歳にして人生に絶望したと語る少女の目は、やつれた外見や口から出る言葉とは裏腹に、精気がこんこんと湧いています。月もない夜に光を宿す不思議な瞳をのぞき込みながら、彼は告げました。
「泣くな、騒ぐな、鬼に食わすぞ。飯炊きと畑仕事をするならば、さらってやる」
無言で頷く少女を、守天が肩に担ぎあげました。単衣(ひとえ)のたもとから撫子(なでしこ)の花がこぼれ落ちます。彼女はそれを自分の名前と決めました。
山中での暮らしが始まりました。なでしこは百姓同然の暮らしも平気で、麻の衣を着て朝から晩までかいがいしく働きます。飯炊きもしました。畑仕事も嫌がらずにやります。