綱は情け容赦のない真の武人です。疑わしきは迷わず斬ります。仁王丸が口を開くよりも早く、太刀が一閃しました。
彼の背に鋼の刃が触れると思われた刹那(せつな)、鈴の鳴るような音がして刀は押し戻されました。仁王丸の影から身を乗り出した鬼が、人の頭ほどの拳を天に突き出しています。
「儂(わし)が相手をする」
低い声が腹に響きます。鬼は頭に二本の角を生やしていました。寺の鬼瓦も恐れをなすほどの厳つい顔で、筋骨隆々とした体には獣の皮の腰蓑を巻いています。身の丈は二尋(ひろ)半(4.5米(メートル))ほどもありました。
「守天(しゅてん)、気をつけろ。その御仁は強い」
返事もせずに武人と睨み合う鬼の「守天(しゅてん)」を置いて、二人は走り去ります。渡辺綱は追う事が出来ません。それでもさすがは頼光四天王、臆することなく隙をうかがいます。
対峙すること暫(しば)し、鬼が声を上げました。
「もっと遊んでやりたいが、またの機会じゃ。綱どのよ、次に会うときは『髭切(ひげきり)』を持って来い。鈍(なまくら)で儂は斬れぬぞ」
綱が色めき立って太刀を振りかざすと、鬼は高笑いしました。風が吹き、砂埃が巻き上がります。瞬きをする間に、鬼は朧(おぼろ)月に照らされた辻から姿を消していました。
京(みやこ)の北西、仁和寺から丹波への道を行き深い山へ分け入った、とある廃寺。本堂こそ荒れ果てていますが、かつての僧坊には目張りがされ、屋根も修繕されています。寺領内には数十名の者がひっそりと暮らしておりました。
仁王丸となでしこ、守天の三者は、中納言の姫君の寝顔を見ています。
「儂が思うにこのお姫さん、本当は来たくなかったようだぜ」
「守天、お前に言われずとも分かっている。問題はどうやって邸(やしき)へ送り返すかだ」
ひと月前ほど前、中納言の姫君がここに来たいと望んでいると云う噂が聞こえてきました。彼となでしこは今宵、その真偽を確かめようと邸に忍び込んだのです。
姫君は「鬼を見てみたい」という、たわい無い好奇心で鬼に攫(さら)われることを熱望していました。家を出たいと心の底から願ったことは、一度たりともありません。なでしこと庭で話をしているところへ飛んで来た守天を見るなり、一番鶏も驚くほどの悲鳴を上げ、気を失って倒れたのです。
そのまま庭に放っておくわけにはいきません。邸内に運び込もうと、守天が姫君を小脇に抱えた時、夜半の悲鳴に飛び起きた家人が弓を射掛けてきました。