小説

『なでしこの花』羽矢雲与市(『酒呑童子』)

「守天よ、わざわざ聞くな。分かっているからこそ飛んで来たのだろう」
 仁王丸は嗄(しゃが)れ声で続けます。
「なでしこを連れて因幡(いなば)へ行け」
 鬼は口の両端を思いっきり吊り上げました。鬼の顔には似合わぬ笑顔です。
「嫌なことよ。主が故里(ふるさと)に連れて帰れ。人間の女など知ったことか」
 彼は我が耳を疑いました。血が抜けると共に、気力も体力も奪われていきます。残された力を振り絞ってかすれた声を出しました。
「主人の命令だ。聞けぬと言うなら空に戻すぞ」
「やれるものなら、やってみろ。儂は抗うぞ、主のような意気地なしと違う。女を守りたいなら、命を捨てるな」
 守天は血が失せて口を動かすことも出来なくなった彼の胴を、むんずと掴みます。軽々と頭上に差し上げると、綱の方を向きました。
「儂は仁王丸により空から生み出された鬼神だ。主人の考えたこと、感じたことは瞬時に儂にも伝わって来るのよ。綱どのと交わした約束も知っておる」
 武人は拾い上げた髭切の太刀を構えて、鬼の目を見返します。
「鬼のお前が、約束を代替わりすると申すのか」
「この有様を見よ。仁王丸が共にいなければ、なでしこ姫はとうてい生きられぬ。綱どのも約束を果たしたとは言えぬではないか」
「吾が問うているのは……」
 綱は言葉を切りました。敵であるはずの鬼を、この時ばかりは信じられると思えたのです。太刀を下げ、小さく顎を引きました。
 守天は西の方へ体を向け、
「仁王丸よ、もう聞こえてはいないだろうが、礼を言う。主のお陰で面白く過ごせた。儂からの餞別(せんべつ)を受け取ってくれ」
 鬼はそう言うなり、仁王丸を因幡の国の多鯰ヶ池(たねがいけ)を目ざして天高く放り投げました。彼の姿はたちまちのうちに山の向こうへ消えていきます。
 なでしこは自ら鬼に近寄りました。守天は「礼物代わりに貰い受ける」と断って、彼女の髪に挿してある撫子の花をそっと摘むと、自分の強い髪に挿しました。それから仁王丸の時よりは優しく、多鯰ヶ池へ向かって放り投げました。
「さて綱どの、約束を果たすとしようかの」

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