「ないわよ肉体関係なんて。それどころかキスだって」
「え」少しほっとした。いや凄くほっとした。
「タロちゃん、本当に忘れちゃったのね。悲しいわあ。あのね、タロちゃんはうちの店の常連だったのよ。覚えてない。『スナックだるま』。あらあそれも覚えてないのね。ある夜にね、お客さんもはけちゃって、もうお店閉めてこのまま二人で呑もうかってなったのよ。その時あたし酔っ払っちゃって、元カレの話を泣きながらタロちゃんに愚痴ったのよ。そしたらタロちゃんが言ったのよう」
「なんて、言ったの」
「『じゃあ次の彼氏ができるまでおれが恋人になってやるぜ』って。あたし、きゅんときちゃってそのまま唇に吸い付こうとしたのよおタコみたいに。そしたらタロちゃん嫌がって。悪いけど女性としかそういうことはできないって。でも愚痴ならいつでも聞いてあげられるからって言ってたわ。その言い方が優しくて、なんだかすっごく嬉しかったの。こんな見てくれでしょ。冗談でもそんな言葉かけてくれる人っていなかったから。だけどそれから何日後かに、タロちゃん事故にあって……」
全く記憶に無いが、それが事実だとしたらおれはその時相当に酔っ払っていたのだろう。
「しかし、酒の席のそんなやり取りだけで三年間も毎週見舞ってくれたのかい」
「別に、カラダを期待してるわけじゃないから安心して。タロちゃんは恋人って言ってたけど、多分『親友』って意味合いで言ってくれたんだと思うのね。けどそれでもよかったの。あたし、ノンケの親友って一人もいないのよお。だから大事にしたくて。目覚めた時に忘れられてたのは悲しかったけどっ」
「そうか……。色々と、迷惑かけたね」
「いいのよ。さっ、今日はもう寝ちゃいなさい。明日は万全でむかえなくちゃ。お昼に迎えにくるわ」
当日は、小雨が降っていた。念のため、母には来ないよう伝えておいた。荷物も前もって持ち帰ってもらっている。交通機関を使うこともためらわれたので、徒歩で一時間ほどの実家まで歩いて帰ることにした。
玄関ホールを出てユキアと並んで傘を開く。
「さ、行きましょう。大丈夫だから、ね」ユキアの声音に緊張が混じっている。
春の雨は寒さを微塵も感じさせることなく、ビニール越しに見える雨粒はとろりとして、雨音も柔らかだった。病院の前を走る国道の手前まで来た時、おれは足を止めた。体が小刻みに震えていた。
「ループ」の中では、病院の敷地外へ出た瞬間何かしらの災厄に見舞われた。丁度ここが、敷地の内外を分ける境となっているのだ。おれはきょろきょろと辺りを窺った。でかい車は走っていないか。飛行機は飛んでいないか。この雨なら雷の心配はないだろう。大丈夫なのか。今度こそ、大丈夫なのか。