小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 必死に水をかき、小舟を追った。追いつけるはずもないのに、そうせずにはいられなかった。あれは俺なのだ。あれは俺の背中なのだ。自分がそうするはずだった。女を迎えに行くはずだった。恥じらいなどかなぐり捨てて、俺が女と一緒になるはずだったのだ。醜さなど知るものか。どうあがいたって俺は俺なのだ。あれは俺だ。俺の背中を、俺は見ているのだ。だから追いつかなければいけない。あの小舟に俺が乗らなければいけない。行くな、行かないでくれ。俺を独りにしないでくれ。
 やがて彼は声もなく、湖のなかばで手を止めて、茫然と小舟が残して行った泡の筋を見つめた。
 破れそうな心臓に手を当てながら、彼はじっとそこにたたずんでいた。涙ばかりがしきりに流れて、あご先から滴り落ちていくつもの水紋をつくっては、さざ波にかき消された。
 あの甘い香りが、風に乗って漂ってきた。倒れていたイチイの幹からも、かすかに同じ香りがしていたのを思い出した。俺が眠りをむさぼっているあいだに、あの男はこの森で舟をつくっていたのか。なぜそれに気づけなかったのかと、彼は歯がみした。彼と女とを結びつけていたはずの湖が、今や彼には果てしない懸崖のように思われた。
 ふと目を上げると、岩穴の上方の、樹々がつらなるその合間から、朝日影が洩れ出していた。金色を浴びて、みずからの影が後ろへ後ろへと、長く伸びていくのを彼は感じていた。ため息はいつしか音をなし、切れぎれの咆哮があたりをふるわせた。生まれてはじめて発する声だった。言葉にならぬ醜い声だったが、せめて女のもとに届いてほしいと彼は願った。嘲られてもいい、打ち捨てられてもいい。自分がここにいることに、気づいてほしかった。

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