小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 一人ではなかった。彼は仲間に囲まれていた。そして仲間や自分の体から、香りが発せられていることを知った。体中があたたかく、歓びに満たされていた。
 そして湖の向こう、切り立った崖にぽっかりとあいた岩穴を見ると、そこからはいつものように光がもれているのだった。彼はその光を認めると、仲間から離れ、ゆっくりと水面を移動していった。小鳥が落した黒く美しい種を、女に渡してやろうと思った。
 崖のうえには桜花が咲き乱れていた。その山の端に朝日がきらめいて、雪のように白く美しかった。いつか彼の両足は水底に根をはり、両手はいくつもの葉となって水面に浮かんだ。彼は白い睡蓮となり、一羽の蝶がそのうえにそっととまった。彼が花に姿を変えたように、女もまた、白い蝶に姿を変えたのであった。
 夢は覚めなかった。何度夜を重ねても、何度眠りから離れても、彼は夢のなかにいた。自分が水鳥であったなら、湖の向こうに行けたなら。甘い思いには現実と夢との境もなく、彼はあの晩の悲しみを忘れて、かりそめの世界にひたった。

 
 夢は唐突に覚まされた。森に響きわたったのは、物悲しい音だった。虫の声よりも、風の鳴る音よりも、水鳥たちがたわむれる水音よりも、もっと高く、切ない音だった。途切れ途切れに鼓膜をふるわすその音は、湖の向こうから、風に乗ってやってくるのだった。
 目を開くまでに、随分時間がかかった。まぶたは目やにではりついていたから、それをはがすのに戸惑った。あたりは靄がかかったように判然とせず、形を取り戻すのにまた時間がかかった。そのあいだも、音は鳴り響いていた。
 いつの間にか、彼は光のただなかにいた。太陽の光ではなかった。もっと小さな、か弱い光の群れが彼をうつし出していた。
 風は樹々の葉を落とし、枝々の間から、星明かりが差し込んでくるのだった。もう、彼を隠してくれるものはなかった。知らぬ間にあたりは冬枯れて、彼一人が、変わらずそこにいるのだった。
 変わらないのは彼だけではなかった。遠く湖の向こうには、やはり灯りがともっており、そのなかに女が立っていた。夢のなかでも幾度となく目にした光景であったが、ひとつ違うのは、女が木の枝のようなものを口にあてていることだった。
 女は目を閉じて、かすかに体を揺らしていた。棒にはいくつも穴があいていた。軽やかな指先の動きを見て、彼はさっきから鳴り響くこの音が、女のところから届いていることを知った。
 それは悲しい調べだった。何かを訴えかけるように水面をわたり、風に乗り、彼の元へと届けられるのだった。
 目にうつるのは、女の姿ばかりだった。耳に響くのは、女の奏でる音ばかりだった。そしてあたりには、夜ごと彼に夢を見させた甘い香りが、かすかに漂っていた。

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