それにくらべて、彼の肌は樹皮のように節くれだって汚れていた。彼はため息をついた。腕には隙間なく汚れた毛が生えていて、目を背けたくなるほどだった。なんとみすぼらしいことか。なんと薄汚いことか。途端に恥ずかしくなって、彼は樹の上でうずくまってぎゅっと目を閉じた。すると暗闇のなかに、まぶたの裏側に、女の姿がぼうっと浮き上がってきた。
これほどに美しい存在を、彼は知らなかった。夜の森には花は咲かず、小鳥も姿を見せない。ただ影ばかりを見つめてきた彼にとって、女の顔はあまりにも美しく、神聖に思えたのだった。
そうして彼は、自分の顔のことを考えた。鏡など見たことがないから、どんな顔をしているのかとても想像はつかなかった。ただ、髪の毛の感触や汚れた肌のことを思うと、不安と悲しさばかりがつのるのだった。
三日ぶりに女が姿を見せたとき、彼はこれ以上待っていてはいけないのだと気づいた。この先ずっと、女が岩穴にいるという保証はないのだ。せめて近くで顔を見たかった。いつ女がいなくなってもいいように、その顔をこの目に焼きつけておきたかった。
翌日の暮れ方、彼は意を決して木の幹を伝い、地面に足をおろした。すっかり樹の上での生活に慣れてしまっていたせいで、腰はひどく折れ曲がり、前を見るのも困難だった。ひざがふるえて、二本の足で立つのにもずいぶん苦労した。体は重く、節々が痛んだ。不安が押し寄せて、彼は木の幹に体をもたせかけ、両手で顔を覆った。
森の緑は濃さを増し、夜があたりを包み始めていた。彼は地面がしっとりと水分を含んでいることを知った。落葉の敷きつめられた大地はやわらかく、最初は重く感じられた自分の体が、少しずつ軽くなっていくように思われた。
そこかしこから、虫の声が聞こえはじめた。さまざまな音色が響き合い、切なく空気をふるわせ、寄せては消えるのを繰り返した。
こうした物音に、彼は今までずっと気づかずにいた。葉ずれの音も、幹々がきしむ音も、ずっとすぐそばにあったはずなのに、彼はその存在を知らなかった。大地を踏みしめてはじめて、静寂以外の世界があることに思い至ったのだ。自分以外のさまざまな命が、ここで息をしていることに彼はようやく気がついた。
ふと空をあおげば、たくさんの星々が静かな光を放っていた。夜空は遠く、星の光は頼りなかった。声が届かないから、せめても光を届けようと瞬いているのかと思われた。
星々に導かれるように、彼は注意深く足を踏み出した。ふらつきながらも、一歩一歩足を運び、歩みを重ねていった。歩幅は小さくとも、確かな歩みだった。
森はうっすらと霧に覆われていた。地面から立ち上ってくるものか、空からおりてきたものか、どちらともつかなかった。霧にかき消されるように、虫の声が後ろに遠のいていった。そして白い風が闇へと変わるころに、彼の前には水辺が広がっていた。
樹の上から歩いた距離など、たかがしれていた。けれどずいぶん時間がかかってしまった。何度も木の根に足をとられ、泥にまみれながらも彼はここにたどり着いたのだった。