幼い私は、その意味をあまりよくわかっていなかった。ただ、「いいよ」と、そのとききっと私は笑ったのだと思う。しかし、小雪はとても真剣な眼差しをしていた。何かに縋るような、それでいて有無を言わさぬような、鋭い目つき。私の瞳の奥を覗き込むような深い眼差しを、今でもよく覚えている。だから小雪が上京すると言ったとき、私も一緒についていった。大人になった今でもこうしてずっと隣にいるのは、何となく成り行きのようでいて、実はあの約束のおかげだということを知っていた。絡まり合う枝のように、私達の絆は誰にも壊されないものだと、信じていた。
夜風が靡いて、小雪の髪を揺らしていった。赤く濡れた唇が開かれて、何かが飛び出そうとしている。
「…私ね、結婚しようと思うの」
小雪は俯いていたので、髪の毛に隠されたその表情はわからなかった。ただ、目の前にいる筈の小雪が何故だか急にひどく遠くに感じられて、その言葉の意味を理解するのにややしばらくかかった。ノアが退屈そうにあくびをする。
「そう…」
ほとんど吐息と変わらないくらいの頼りなさで、私はそれしか口にできなかった。
ちょうどそのとき、強い風が吹いて、白と紅の梅の木を大きく揺らした。月明かりに晒された二色の花弁が、ざんざんと私達の目の前に降ってくる。ノアが花弁を掴まえようとしてしきりにぴょんぴょん跳ねていた。声もあげずに泣き続ける小雪の肩を抱いて、私は夜通しかけて少しずつお酒を飲んだ。「おめでとう」とようやく口にできたのは、もう、小雪が眠りについてからのことだった。
明け方の道を、私はひとり、宛てもなく歩いた。どこまでもどこまでも歩き続けた。
朝日が爽やかで眩しくて、空っぽの身体に染み込んでいくようだった。疲れが溜まって足取りは重く、どこに向かっているのか、どこへ行けばよいのかもわからないまま、ただがむしゃらに歩いていた。
私はきっと、ずっと小雪のことが羨ましかった。美しくて、頭がよくて、優しくて、私の持っていないもの全てを彼女は持っていた。そして、私は小雪のことが大好きだった。あの約束は、私を縛り付けていたようでいて、本当は私のほうがあの約束に甘えていたのだ。私達はいつまでも子どものままではいられなかった。どんなにそうしたくても、ずっと小雪の隣にいることはできなかった。ばぁちゃんがこの世を去ってしまったように、梅の花も散ってやがて実をつけるように、小雪とはいつか離れ離れになるときが訪れ、きっと彼女も、私の知らないところで死んでしまうのだということが、どうしようもなく真実だった。
もう一度、手のひらを見る。私の中に何が残っているのか探してみたが、何も見つからなかった。寂しかったんじゃない、悲しかったんじゃない、悔しかったんじゃないけれど、私は歩きながら声をあげてみっともなく泣いた。真っ暗な奈落に突き落とされたような、それは絶望だった。小雪のいない世界でも、これから歩んでいかなければならないという、絶望だった。