小説

『われ太陽に傲岸ならん時』末永政和(『イカロスの墜落』)

 すると全身を打ち据えるようにぶつかってきた風が、イカロスを認めたかのように様子を改めた。浮力を全身に感じると、途端に呼吸が楽になった。慣れとともに全身の緊張がほどけていくと、イカロスの翼は次第に速度を増し、ダイダロスとの距離を縮めていった。これほどの開放感に浸るのは生まれてはじめてだった。父に比べて自分は取るに足りぬ存在だと思っていたが、飛翔という行為を知ったイカロスは、全能感に浸っていた。
 一羽の鳥が、イカロスとすれ違っていった。まっすぐに迷宮を目指していく。そのときイカロスは、はじめてミノタウロスと出会った日のことを思い出していた。ミノタウロスの周りには、たくさんの鳥が集まっていた。抜け落ちた羽を置いていく鳥もいただろう。やがて迷宮を脱出するイカロスのために、ミノタウロスは鳥たちを呼び寄せていたのかもしれない。小さなものたちの命を奪うことなく、時間をかけて羽を集めたのだ。人間をこそ憎んだが、寄り慕うものを殺めるほど残酷にはできていなかったのだろう。
 しかし若き生贄たちはどうなのだ。彼らに罪などなく、殺されるいわれもない。結果的に、彼らの死があってこそイカロスとダイダロスは迷宮からの脱出に成功したが、ミノタウロスがそのために手を汚していたのだとしたら……。そんなはずはないと分かってはいるが、果てしない罪の連鎖に巻き込まれたような気がしてやるせなかった。何か大切なものを、迷宮に置き去りにしてきてしまったような思いだった。

 ミノタウロスの出生の秘密について父から聞いたのは、迷宮に閉じ込められた最初の晩だった。海王ポセイドンの呪いによって、王妃パーシパエーは牡牛に劣情を抱くようになった。その呪いもまた、ポセイドンに捧げるべき牡牛をミノス王がすり替えたためだという。元凶はミノス王であり、王妃もまた犠牲者であった。欲望を抑えきれなくなった王妃は、ある日ダイダロスを内密に呼び寄せる。そしてダイダロスがつくったのが、中をくりぬいた雌牛の模型なのだった。王妃はその中に体を隠し、勘違いした牡牛がやってくるのを待つ。そうして過ちの情交によって生まれてきたのが、ミノタウロスなのだった。
 この一連の事実を、ミノス王は知っていたのだろう。王妃もまた、醜悪な我が子から顔を背けた。そしてミノタウロスを閉じ込める迷宮をダイダロスにつくらせた後、王はダイダロスをも迷宮に閉じ込めた。

 ミノタウロスとは、あの後一度だけ言葉を交わした。同じように、星が瞬き始める夕暮れ時だった。
「私はなぜ生まれて来たのだろう」
 星々を見つめながら、ミノタウロスはそう言ったのだ。ミノス王の罪を、王妃パーシパエーの罪を彼は知っている。その罪ゆえに、こうして牛頭の化け物として生まれてきてしまった。ならば自分が両親の代わりに罪をあがなうべきなのか。しかしその思いとは裏腹に、自分はこの迷宮で罪を重ねている。なぜ中途半端に人間の心を持ってしまったのだろうか。身も心も獣でいられたなら、こうして思い迷うこともなかっただろうに。

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