小説

『われ太陽に傲岸ならん時』末永政和(『イカロスの墜落』)

 ミノタウロスの前には、遥かに広がる海がある。その先には水平線があり、今まさに沈まんとする太陽があった。ミノタウロスが静かに腕を差し伸べると、どこかからやって来た一羽の鳥がそのうえで羽を休めた。翼を金に染めた鳥たちが一羽、二羽と集まり、その影がにぎやかに躍った。小鳥もいれば猛禽もいる。彼らは争うこともなく、夕暮れの一時に戯れていた。
 やがて鳥たちがその場を去ると、ミノタウロスはゆっくりと口を開いた。
「ダイダロスの息子か。名は何という」
 低くしわがれた声だった。牛の頭は喋るに適さないのか、ただそれだけの短い言葉にも関わらず、何度か嗚咽のような音が混じった。
「私は……イカロスだ」
 うめくように答えた。
「そうか、良い名だな。ダイダロスともどもこの迷宮に囚われたか。お互い、偉大な父親を持つと苦労する」
 おそらくミノス王のことを言っているのだろう。牛頭で生まれてきた息子を憎悪し、迷宮に閉じ込めた張本人だ。そしてミノス王の命を受けて、迷宮をつくった人物こそダイダロスなのだった。
「我はアステリオス。星の意を冠する名だが、どうやら屑星であったらしい。太陽のごときミノス王の威光に比べれば、地を這う陽炎に過ぎぬ」
 そう言って、ミノタウロスは寂しく笑った。その本名を、イカロスははじめて知った。ミノタウロスという通り名は、ミノス王の牡牛を意味する。あくまでも王の所有物であり、他の多くの家畜と変わらぬ存在であったのかもしれない。
 しばらくの間、沈黙が続いた。ミノタウロスは物見台の欄干に体を凭せかけ、日が沈んで行く様をじっと見つめていた。あたりに影が立ちこめていく。醜く吹き出物で覆われた背中は、ずいぶん小さく思われた。
 愛されずに育った悲しみを、イカロスもまた知っている。ダイダロスは、昔から家庭のために何かをするような男ではなかった。名工の誉れ高く、数多の発明によって国外にまでその名は知れ渡っていたが、彼が信じるのは己の腕のみであった。時折イカロスに手伝いをさせることはあったが、自身の技術を盗み見られることをひどく嫌い、決して道具を振るうそばに近づけようとはしなかった。
 母は奴隷上がりで、ダイダロスの顔色をうかがうことしかしなかった。それでも毎日のように痛めつけられ、イカロスが幼いころに病で死んだ。以来、イカロスは母の代わりに、つまり奴隷のように、ダイダロスに付き従うことを余儀なくされていた。
「……殺してやろうか」
 突然の一言に、イカロスは思わず後ずさった。浅はかだった。この化け物が、呑気に自分語りだけをして終わるわけがないではないか。しかしミノタウロスは、弱者の反応を見て苦笑するばかりだった。

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