小説

『われ太陽に傲岸ならん時』末永政和(『イカロスの墜落』)

 ミノタウロスが母の胎内にいるときに神官が名付けたアステリオスという名を、ミノス王が口にすることは一度もなかったという。
「せめて一度でも、アステリオスと呼んでほしかった」
 それが、最後に聞いたミノタウロスの言葉だった。

 今頃ミノタウロスは、物見台からこちらを見つめているのかもしれない。悲しく濡れた瞳が、醜く歪んだ背中が思い出されたが、イカロスは決して振り向きはしなかった。ふと眼下に目を転じると、アテナイの方向から船が進んでくるのが見えた。ミノタウロスに捧げる生贄を積んでいるのかもしれない。
 良心の呵責に苦しみながら、ミノタウロスは迷宮にとどまった。地の底に身を置き、やがては誰かに命を奪われるのだろう。しかし自分は違う。自分は今、自由を手にしたのだ。何者にも縛られはしない。ダイダロスでさえも、自分をこれ以上束縛することはできない。
「太陽のごときミノス王」と、ミノタウロスは言っていた。「太陽には決して近づくな」と、ダイダロスは言っていた。太陽とは何か。偉大なる父を太陽とするならば、自分は今このときこそ、太陽を超えねばならない。ミノタウロスにはできなかったが、俺にはできる。俺は太陽を超えて、新たな星となるのだ。そうすれば、ミノタウロスの、アステリオスの悲しみにも応えてやれるだろう。
 ダイダロスは決して認めはしないだろう。誇りと驕りにとらわれた、冷酷な父のことだ。息子はその愚かさゆえに、太陽に近づき自らを滅ぼした。翼の蝋は熱に溶け、海に没したとでも触れ回るのだろう。それでもかまわない。俺だけが、真実を知っていればいい。

 イカロスは高く高く、雲を貫いてなお高く飛び続けた。もうダイダロスの姿は見えない。誰に縛られることもない。自分だけがここにいるのだ。翼は冷気に凍り付き、体は鉛のように重くなった。あらゆるしがらみを断ち切るように、イカロスは懸命に翼を広げた。太陽よりも高く。イカロスの頭にあったのは、ただその一事のみだった。
 はるか空の向こうは、紅蓮の炎に染まっていた。イカロスの体もまた、赤々と燃え上がっていた。凍り付いた体は金剛石のように硬く、太陽に負けじと盛んに光を放つのだった。もっと強く、もっと激しく燃え続けねばならない。この光が迷宮にまで届くように。イカロスはただそれだけを思い、やがて中天の星となったのだった。

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