小説

『夏は気球に乗って』義若ユウスケ(『春は馬車に乗って』)

弟の残していったカブトムシを、私は世話することにした。
エサは昆虫ゼリー。
赤、青、黄、緑、紫、黒、透明、色とりどりのゼリーを虫かごの中にこれでもかってほど降らせてやった。
太れや、カブト、長生きしろや。
虫かごが七色のゼリーでいっぱいになった頃、弟のガールフレンドを名乗る女の子が家を訪ねてきた。
そばかすの多い頬をカールさせた髪で隠した、可愛らしい少女。
泣きながら頼むのだ。
「なんでもいいから、なんかください」
まだ付き合って間もなかったようで、ふたりの思い出の品というものがないのが残念でならないらしい。
「わかったわ。じゃあ、これは、あなたの彼のお姉さんからのキスよ」
そういって、私は有言実行。
彼女のひたいにキスしてやった。
「そしてこれは、あなたの彼のお姉さんのボーイフレンドからのキスだ」
といって、その日たまたまうちに来ていたモンテ・クリスト伯も有言実行。
紳士的に、彼女の指をとってチュッと唇をおしあてた。
彼女はリンゴみたいに真っ赤になって帰っていった。

「お嬢さんを僕の旅に連れていきたいとおもうのです」
モンテ・クリスト伯がそう切り出すと、お父さんは狂ったように笑いだした。
「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

これじゃ、話にならないな。出直すよ。
そういってモンテ・クリスト伯は帰っていった。
その日、お父さんは夜がふけるまで笑い転げていた。

はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
みなさん!
娘に捨てられそうです!
息子には先立たれました!
はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
人生!

そしてお父さんは破壊をはじめた。
テレビやラジオ、電子レンジに冷蔵庫など、目についたものを手当たり次第に金属バットでぶん殴るのだ。
私は途方に暮れてしまった。
お父さんが壊れていけば壊れていくほど、お母さんも静かに狂っていった。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ。そうね、右の頬をぶたれたら左の頬も差しださないといけない。あなた、私たちは悲しいことに、息子にひきつづき娘まで、死神に差し上げねばならないようです」
「お母さん、それは、モンテ・クリスト伯のこと?」
「まさか。モンテ・クリスト伯が死神であってたまるものですか。死神というのはね……」

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