小説

『断ち切って、さび』日野塔子(『ラプンツェル』)

 だからもう少し待っていてください。
 と、髪長は微笑んで、また山の奥に帰っていった。木々がまた揺れていた。

 
 静かな夜の中のざあんっという轟音できりこは目が覚めた。外は嵐などではない。今日は月夜のはずだ。寝ぼけたのだろうかと思った矢先、外からにわとりの小さな悲鳴がした。思わず背がそれ、心臓が大きく脈打つ。獣だ。獣がまた襲いにきたのか。きりこは息を潜め、物音を立てぬよう起き上がり、そっと戸の向こうを覗いた。黒い獣のような影がとてつもない速さで、奥へ走り去ったのが分かった。家の外に気配はない。だが、きりこの汗はどっと垂れ続けている。
 影が向かった方向は……あの方が、髪長さまがいるところだ!
 気がつけばきりこは山道を駆けていた。月が照らしているとはいえ、走れば走るほど木々は濃くなっていく。夜に外へ出てはいけない、父と母はよく言っていた。理由は知らないが、きりこもそれを承知していた。だが無理だったのだ。恐怖とあせりからおののくきりこの心臓を、きりこの足は意に帰さない。途中、なにかに足をひっかけて転がるまで、きりこは走った。
 ようやくきりこは大きく呼吸をし、息を整えることができた。灯りを持ってはいなかったものの、夜目がそれなりにきき出し、振りかえって土にまみれた足のさきを見やる。
 髪。いつぞやと同じく、そこには髪があった。きりこはすぐさまそれを持ち上げたが、普段自らを助けてくれるときの様子となにかが異なることに気がついた。動かないのだ。ただそこに転がっているだけ。髪長のものであるはずなのに。
 まじまじと眺めていれば、その髪が一房にまとまって綱のようにどこかへ伸びている、あるいはどこかに繋がっているのではないかときりこは思った。髪は左右両方向に広がっていたが、きりこはより暗い方へ足を伸ばしていった。
 しばらく歩くと、特別開けた場所に出た。月の光を一心に浴びる中心には井戸がある。石を積み上げて作られたふちに、濡れ羽色の髪がかかっている。髪をたどってやってきたきりこはとっさに血の気が引いていた。覗きこめば、奈落のように深く、水の存在さえ確認できない。
 髪は、この井戸の底へ続いているのだ。きりこは逡巡した後、声を掛けようと息を吸う。しかし空気が言葉として出てくることはなかった。
「何をしている」
 低くしゃがれた音色の持ち主は、黒に染まっていた。開けており、月明かりが照らしている中で、それだけ影の中にいるかのように真っ暗だった。両の目だけが鋭く光っている。きりこにはなす術がない。立ち尽くすほかなかった。
 これはなんだ? 人間か、獣か、その両方か、あるいはどちらでもないのか。まったく分からなかった。でもこのまま留まっていたら、よくないことが起きる、というのは肌で感じていた。意識せず、髪を指が白くなるまで握っていた。

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