小説

『入水失敗の醜女』玉響かをり(『宇治拾遺物語』「空入水したる僧の事」)

(仕方がない……ええ、仕方がないのです。ほんとうに選ばれたのはお姉さまのほうなのですけれど、そう訴えたところでだれにも信じてもらえないでしょうし、大蛇から助かる術もわたくしひとりでは思いつきません。ならば、このままお姉さまの身代わりになりましょう)
シェルスはときどき自分自身にそう言い聞かせては、ため息をこぼしました。しかし一方で、やはりなんとかして生きながらえたいものだと望んでいました。
 そうした気もちが表にあらわれたのでしょう、シェルスは見物人たちが清めの紙吹雪を大量にふりかけてくるのに対して、ひかえめな抑揚で頼みました。
「目鼻に紙吹雪が入ってくるのが苦しくてなりませんので、どうか籠に詰めて、あとから持ってきてくださいな」
 見物人たちはシェルスを馬鹿にして、あるいはいぶかしんで罵倒しました。
「もうすぐ入水するくせに、あとからもなにもあるまい」
「どうせ死ぬのだ。目鼻に入るなどと気にするのはおかしいぞ」
一行がみずうみのはずれまで進むと、そこで待ちかまえていた人びとも道筋に集まってきました。シェルスが顔をわずかにあげると、水辺に木の小舟がつけられているのが見えました。みずうみの中央まで移動するための、死の小舟でした。
 入水のときに差しかかって怖気づいたシェルスは、付き添い人に尋ねました。
「本日の月は、まちがいなく満月でしょうか」
 付き添い人は、おかしなことを尋ねてくるものだという嘲笑をこらえながら「はい、まちがいございません」と即答しました。
「そうですか。それにしても、入水のときにはまだ早いように思います。どうか、いま少しお待ちくださいませ」
 その要望にすぐさま野次が飛び交いました。しかし、そうは言っても一応シェルスは領主の娘という高い身分にあるので、みなの手で無理やり小舟のなかに押しこむわけにもゆきませんでした。
 待ちかねて、遠方から来た者たちは至極つまらなさそうに帰ってゆきました。
 それでも、みずうみの周囲にはまだまだ多くの見物人が残っていたのですから、シェルスの入水には相当の期待が寄せられていたと言えるでしょう。そのなかに、付き添い人とおなじく神に仕える者がいて、「もはや満月は出ているのだから、大蛇を満足させるのにこれ以上早すぎるということはあるまい」と不服そうにうなりました。
 もはや先のばししてはならないという場の圧迫感を察したシェルスは、付き添い人とともに小舟に乗りこみました。
みずうみの中央に到着すると、シェルスはこわごわと右足のつま先を水中につけ、しばらくのあいだ意味もなく動かしつづけていました。はた目には水遊びをしているかのように見えたかもしれません。シェルスはいまだ、いのちを捧げる覚悟ができていなかったのでした。

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