小説

『8月の部屋』日根野通(『2月の部屋』)

 彼の泊った部屋がわかれば、何か手掛かりを残しているかもしれない。彼の為にも自分の為にも、ひたすら部屋を開けてみるしかないのだ。
 3月、4月、5月、6月。蓼科は部屋を開ける。冬に比べて景色が明るく、彩り豊かな景色が広がる。強い香りを放って湖のほとりに佇む水仙、川に浮かぶ小舟を覆う桜のトンネル、静かな寺を彩る牡丹、雨に濡れるアジサイ。やはり姉の気配と白い浴衣の片りんは見えるがその姿を掴むことはできない。衣笠の足跡もない。
 7月の部屋の襖を開ける。そこは整えられた庭園のような所だった。しばらく歩くと蓮の浮かぶ小さな池があった。濃い緑の葉の上に白や桃色の美しい花びらが花開いている。驚くほど透明度の高い水の中を金魚が悠々泳いでいる。蓮に囲まれた小さな池に、色とりどりの金魚が泳ぐ姿は一つの絵のようだ。これに近い絵を見たことがあるような気がする。
そう思った時、目の端に白い何かが映る。
 姉さん、と思ったがそれは白い猫だった。白い猫はじっと蓼科を見つめ、その視線を池の中の金魚に移した。そして一匹の赤い金魚をめがけて、池に飛び込んだ。猫が金魚を襲ったのか、水面には赤い血が浮かぶ。猫は浮かんでこない。蓼科が水面に手を伸ばすと、景色が変わった。
 蓼科は座敷のちゃぶ台の前にいた。目の前には凝った意匠の深皿に浮かんだ蓮の花があった。一体何が起きたのか。今までとは違う世界、姉は現れなかった。そして、そうだ。衣笠の元に届いた絵ハガキにも水の中を泳ぐ金魚が描かれていた。だから先ほどの風景に見覚えがあると錯覚したのだ。ここで初めて衣笠の足跡を見たような気がした、限りなく薄い足跡ではあるが。しかしもう入る事を許可されている部屋はない。
 もしかしたら、衣笠も自分と同じものを見ていたのか。違うにしても同じような状況にあって、次々と部屋に入って行き、最後に開けてはいけない部屋を開けてしまったのか。
 ならば、答えは8月の部屋にある、そう思った蓼科は立ちあがった。心の奥底では、先ほどの情景に引っ掛かりを感じていたが、急ぎ8月の部屋へ向かう。
 蓼科は8月の部屋の戸を開ける。今までと同じように座敷があって、襖がある。
 襖の奥から音が聞こえる。話声と、サクサクという地面を掘るような音が。
 恐る恐る、襖を開けてみるが、中は真っ暗で所どころにボンボリの灯りのようなものがぼんやり見えるだけで、あまり良く見えない。声が鮮明になり、何だか生臭さと獣臭さの混じったような匂いがした。
「急げ、早く埋めないないと気がつかれてしまう。この忙しいのに一体何をしていたんだい。」
「8月の部屋にはキンカンを植えるんだ。こいつは、素晴らしい花をさかせるだろうよ。」

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