思いがけない助け舟に蓼科は喜びを表情に浮かべるが、頭の隅でずいぶん都合がいい話ではないか、と勘繰ることも忘れなかった。
女は鍵の束を蓼科に渡す。
「立たせたままお待たせするのも何ですから、お部屋でおくつろぎください。この鍵があちらの最初の扉の鍵です。あの内側には12の部屋がございます。1月から12月まで月が部屋の名前になっております。蓼科様のお部屋は9月の部屋。それ以外の部屋も趣向をこらした造りになっておりますので、よろしかったらご覧ください。それじゃ、また後で。」
女は妖艶な笑みを浮かべて、蓼科に背を向けて戸に手を掛けた。そして、振り向いた。
「ただし、8月の部屋だけは入らないでくださいまし。」
残された蓼科は鍵の束を持って、大きな扉を見上げた。
鍵は固いが、確かに開いた。重い扉は音を立てて静かに開く。
扉の外は屋外だった。そこにはいくつかの独立した蔵が連なり、扉の横には表札のようなものがある。
「1月、2月・・・、私の部屋は9月だから、ここか。」
鍵は意外とすんなりと開いた。中は至って普通の十畳程の部屋だった。張り替えてまだ月日がそれほど経っていないのか、綺麗に整えられた畳が心地よい。右手におしいれがあり、正面は全面襖で遮られている。
縁側でもあるのだろうか、と蓼科は襖を開けた。
蓼科は言葉を失った。そこには一面のヒガンバナが咲き誇っていたのだ。
陽は落ち、月が輝いていたはずの空は夕焼けに染まっている。オレンジと血のような赤がこの世の終わりのような、どこか懐かしいような感覚を起こさせる。
真っ赤な絨毯のような花畑の中に足を踏み入れた蓼科は、それが幻覚などではなく、質量と質感を持った現実の花であることを確認した。辺り一面の花の海を掻きわけるように進むと、遠くに一点だけ白い何かが見える。近づけばその輪郭が人の形をしている事が分かった。白い浴衣に真っ黒な髪を束ねた少女の横顔が見える。蓼科が声を掛けようとしたその時、少女は蓼科の方に向き直った。
蓼科は言葉を失った。
見覚えのある顔、昔目にした裾に金魚の絵柄のある白い浴衣。昔神隠しに遭った姉の姿があった。新しい浴衣に喜んでいた、姉。よく縁側で猫を撫でていた優しい姉がその時の姿のまま、そこにいた。
放心したように歩みを進め手を伸ばすと、かつて蓼科の姉であった少女はすっと姿を消した。