小説

『8月の部屋』日根野通(『2月の部屋』)

 汽車は黒い煙を吐きながら、風景をやり過ごし、ただひたすら進む。
 蓼科は四人掛けの席に一人で座って、窓の外を眺めている。
 窓の外には、少し黄色くなり始めた稲穂の海にかかし達が気持ちよさそうに浮かぶ。
 先日、瞳子から会社に電話がかかってきた。壁に掛けられた箱を通って聞こえてくる彼女の声は、無機質でなんとも不思議な感じがした。彼女にY県に向かうことを伝えると、「そうですか。」という返事が返ってきた。その時だけ少し安堵したような、嬉しそうな気持ちが感じてとれた。感情の起伏があまりなさそうだったが、やはり婚約者の身を案じる女なのだと蓼科も少しほっとした。戻ってきた時に結果を報告したいので、連絡先を教えてほしいと言うと、彼女はいつものような無機質な声色に戻って、また一週間後にこちらから連絡する、と言い、固くなに連絡先を教えてくれなかった。
 おかしな人だ、と蓼科は思う。あの美しくはあるが無表情な瞳子と、明るく快活な衣笠が結婚生活を送る姿が想像できない。正反対だからこそ魅かれるものがあったのだろうか。
 乗客は次々と汽車を降りる。いつしか汽車の中には蓼科一人になった。昼前に汽車にのったはずだが、気がつけば陽は赤みを帯び、地平の向こうに沈もうとしている。
 初めて来る場所とはいえど、どの町も似たりよったりだ。ただ思っていたよりはずっと栄えている場所だった。駅を降りてすぐの商店街は石畳の大通りを囲むように様々な店と街燈が立ち並んでいる。
 宿場に荷物を預け、さっそく捜索に入る。といっても何処から手を付ければ良いのか。渡された手がかりはこの町に衣笠が出張に来ていたということ、この絵ハガキの「繊月堂」だ。役所に聞くにもすでに閉まっている。地道な聞きとりをするしかないか、と商店街に向かって歩く。何件、何十件と尋ね歩くが「繊月堂」を知る者はいない。
 裏路地に入る角にこじんまりとした屋台があった。カツオだしの匂いが香る。看板はないが、蕎麦屋だろうか。ずいぶんと歩きまわったし、気がつけば腹が減っていたので、蓼科はその屋台で夕食をとることにした。
 屋台についた暖簾をあげると、人の良さそうな顔をした七十くらいの男が「いらっしゃい」と挨拶をする。蓼科は天麩羅蕎麦を頼む。
「つかぬ事をお伺いしますが、この辺りに『繊月堂』というお店はありませんか。」
 蕎麦を待つ間の世間話として、ふと聞いてみた。
「ああ、あそこね。」
 茹でた蕎麦の湯切りをしながら、男は答えた。
「え?ご存じなのですか!?」
「ああ、この路地を真っ直ぐ進んだ所に赤い鳥居がある。その鳥居を潜って左に進むと坂があるから、それを登る。そしたら赤い橋が見えるはずだ。橋を渡ると小さな宿場町のような所があってね。その一角に『繊月堂』ってのがあったはずだよ。」

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